「毘沙門天王秘宝蔵霊験記」第五にこんな話が出ていいます。原文のまま紹介します。抜き書きですが、これは「霊験記」の著者である僧、蓮体さんとある人の問答から始まります。以下原文
ある人問う。
「人の福を永らえるは酒肉をほしいままに歓楽せんがためなり。
しかるに公(蓮体さん)の説のごとくは仁義謙遜を守り、貧民、乞匈にめぐまば福を得たる甲斐はなからん。
福をえば随分に吝嗇して金を貯え、田地山林を求め、衣服屋宅をかざり、貸し金して利息を取り大福人といわれて、美女を愛し、美味を喫して楽しむこそ人間の極果なるべけれ。
身を節倹にせば福、なんの益あらん」と。
予答えて曰く
「汝がこの意は貧乏神の思わしむところなり。財を蓄えて我一人の奢りを極めんと思うならば天王より一人分の扶持ばかりをたまうべし。
しからば、一年に一石八斗にはすぐべからず。
今の世の福人をみるに慳吝にして多くの財宝を貯え、美味をたしなみ、淫酒にふけりて慎みなければ、多くの金銀をたちまちに損耗して後には災難起こり、口舌諍論数知らず、しかれば皆苦しみの基となり楽に非ず。
あまつさえ二十、三十の壮年に脾腎の虚を患い、にわかに周章狼狽して服薬し、祈念祈祷さまざまにして生駒よ、山崎よ(ともに聖天の霊場として名高い地)とて聖天供をたのめども、この期にのぞんで耆婆、扁鵲(耆婆はインド、扁鵲は漢土の名医)も手をたたき、千座の浴油も少しも験もなし、ただ未来阿鼻(地獄のこと)の苦患近づくばかりなり。
壮年の人すら然也。いわんや六十に余りたる痴翁(バカオヤジ)をや。しかれば今の愚人の楽しみと思うは皆、苦の基なり。奢りを止め慈悲心に住し、酒色を過ごさず仏法に帰依して天王に報じ奉るときは、福神常にわが頂きに住したまい、宝蔵尽きることなく、官禄ともに昇進し、寿命長遠にして子孫繁盛すべし。
これ豈に福徳無尽蔵にあらずや。」
ウ~ン、今も昔もこういう人いますね。福を手にするのはただ、栄耀栄華のため。ま、一面正直でわかりやすいですが聖天信仰も同じことだと思います。