金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

過度のメッキは逆効果

だいぶ前ですが御祈祷の効くと定評のあるお坊さんが、実は信者さん宅を回って泥棒していたというニュースを聞いたことがあります。
この人かなり評判の良い方だったそうです。
残念ですね。
あるいは牢屋から出てきて反省もなく、宗教やっている人もいます。
それで密教のなんとか流の正統派だのと豪語しているところもありますね。
すでに本山が競売に出されて追い出されてしまったのに、まあ意気盛んですね。
こういう人達ってなんで宗教やっていられるんでしょうね。
不思議だなあ。自分を顧みないの?それとも商売と割り切っているんだろうか。
商売と割り切っているなら話は簡単ですが、そうでない場合は多分、本人の中で分離が起きている。
ジキルとハイドみたいなもの。
宗教は宗教、裏の顔は裏の顔なんでしょうね。
だから反省なし。
仏教系なら懺悔文とかどう思うのだろう?
はっきり別なものだと分けている。
これを心理学で「分離」といいます。
あるいはそういう悪の部分は必要悪だと思っているんだね。
「俺は泥棒しているけど、そのお金でお寺経営して世の中の人救っているんだ。正義の泥棒だ。」とか、そういうのでしょうか。


勿論、前科があったら宗教業しちゃいけないとかは私は全然思いません。
人は過ちをするもの。
私だってまかりまちがえば前科者になるかもね。
誰だって、それは同じと思う。
そして贖罪の心や反省や学びがその人を大きくすることもあるでしょう。
昔、極道だった人でも今は立派な人は随所にいっぱいいます。
でもそういう肝心の反省も学びもまるでない人もいます。


そういう反省のない人や学びゼロの中身のない人には特徴があります。
すぐに権威づけに走る。メッキを塗るんですね。
そしてやり直すという心はなく、取り返すという心しかない。
最近は何も始まってないのに宗派まで名乗るのもあるらしい。実態は管長さん(?)がたった一人でやっているところもあるらしいですね。
私の考えでは宗派って人の集まりなんだと思うけど?これって屋号かなんかと勘違いしているのではないかしら。

まあ、それだって法律上はなんの問題ない。
今は奈良時代じゃないから僧綱があるわけじゃない。
宗派だろうが、大僧正だろうが、管主だろうが、座主だろうが何を名乗ってもオーケーです。
いっそ「なんとか大師」とでも言えばいいんじゃない。
それでもオーケーでしょう。

驚いたのはある地方寺院のご住職の話で、たまたまある新宗教の人と話していたら「三井寺のトップは長吏さんですか。でも、うちだって長吏さんいますよ。御門跡だっています。」と威張っていってたとのこと。
長吏とは「官吏のトップ」の意味、もともと官職だからそういうわけなんです。その名残です。
「御門跡」だってそこの住職に皇族がいた歴史があってこそ御門跡なんですね。
そういうのまるで分っていない。たかだか30年とたたないような歴史の新宗教にどうしてそういうのがあるのだろう?
そのほか灌室だの、密教だのはたとえ新しい宗派でも系譜があるはずです。まして潅頂道場があるのなら相当の構えの寺院のはずですね。
従来の系譜を全く無視して新しい宗派や流派があるわけじゃない。
それを無視すれば大日如来からの伝持がないということになる。
それは少なくとも密教ではありません。
だから密教だというなら、そういう新しい宗派や流派であれ何流の系譜でどこで修行されたのか聞くのがみそです。
新宗教密教の流れならそれは当然あるはずです。
今いったようなのはいずれもメッキのようなもんだね。でもここまで過度のメッキは逆効果ですよ。
もの知っていればおかしいと思いますから。
そうなればメッキならぬ「恥の上塗り」です。

私は新しい宗教や宗派が悪いとは言わないです。
自信があるなら堂々としてたらいいんですよ。
そんなトラの威を借りるようなインチキ臭いこと言わないでもいいでしょうに。
そういうことは言わず町の拝み屋さん、6畳間、8畳間の道場一つでまじめに信者をケアし民間宗教者をしている人の方がよほど信頼ができる。
そもそも、そういうことができないからはじめから虚偽の権威を振りかざしたがるんだね。

拝み屋さんから立ち上がった昭和以前の新宗教の教祖さんたちはすごい人がいっぱいいます。
尊敬できる人もいっぱいいます。そういう人の書いたものや伝記も何冊もよんで勉強させていただきました。
そういう人たちは何の権威も借りないで来た。神さんと二人三脚だけで来た人もいっぱいいる。
宗教が政治の厳しい統制下におかれた時代、数々の苦難にあって残ってきた教団のお祖師さんたちです。
まあ、でもそういうのとは月とスッポン。
道は違えどもこういう祖師に対し恥ずかしいくらいです。
なにを名乗るのも法律ではオーケー。
誰も文句いえません。
でも、それはいいけど「教団」というのは社会的存在なんですから、周囲が納得しないと生き残りません。
法律にさえあっていれば人がついて来るわけじゃないだろうから。
まず何よりも一にも、二にも先に純粋に信仰が無ければダメです。