ちょうどまだ半跏座で座れるくらいの人数ですから、よかった。
あんまり大勢いると座禅は無理やね。
人がびっしりいたのでは座禅はできない。
当院では基本的に濱地天松居士の「無我相禅」というのをしています。
でも時間の関係で10分くらいしかしないのです。
この10分は修行というより自己観察の機会です。
座禅するとすぐに我々は余計なこと考えます。
それこそ、待ってましたとばかりにどうでもいいことをあれやこれや考えたり、もしくは悩みごとがあると、それこそここぞと悩む。
悩みたいんだね。人間は。
ゆっくり、じっくり悩みたいのが人間という動物。
それはそうやって、悩むことで解決できるとどこかで信じているんでしょう。
悩むこと自体はおおむね、昔のレコードが傷んでで同じとこ、ぐるぐる再生するようなものでしかないんですけど、脳がそれを必要だと錯覚する。
恵心僧都は「妄念はもとより凡夫に地躰、妄念のほかに別の心なき也。」とまで言っています。
このお言葉は小気味いいくらいです。
だから妄念それ自体はどうにもならんのだろうけど、まずその煩悩の中にいる自分を見てくださいと言っています。
いくら妄想しても雑念のオンパレードでもいいんだけど、それを認識する。
妄念の凡夫だと知ることから始めたいんですね。
だから妄念することを止めなくていい。
「ああ、自分って妄念しているんだな。」
「ああ、悩んでる。悩んでる。…」でいい。
妄念結構。雑念オーケーです。
でも、それなら、それで妄念のただなかにいる自分をまず見てくださいということです。これは心理療法でいえば多分「メタポジション」という奴です。
そこを無視したり排斥してはいけない。
そこから始める。
「そうやれば悟れる」かって?
それは知らないけど、そうやると心は確実に軽くなりますよ。
嘘だと思うならやってみて。