金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

あなたの願いは本尊の願い

最近は御祈祷するとき、実は私、本尊に向かって「この人の願いを何とか、何とかかなえてあげて下さい。」とか言う気持ちはないんです。
なぜなら祈願は一生懸命祈って神仏を泣き落としすることじゃないからです。
そういうことは若いうち何千回となくやってきて全く無駄だとわかっています。
 
そのかわりに信者さんの祈願は基本的に神仏の願いでもあると思って祈ります。
それが私のお祈りの基本。
なぜならここへ祈願にこられたというのはそういうお導きだと思うからです。
祈願の前提を考えるとそうなる。
例えば商売繁盛、これは「神様の仕事」だから叶えて頂けるという気持ちで祈る。
結婚でも受験でもこの人の祈願もそのまま尊天の祈願ですから、だからお力を示してくださいといって祈ります。
神仏の願いと信者の祈りは基本的にどこまでも別な祈りではないという気持ちです。
叶うことを神様自体が願っていることと思わないとすっきり祈れません。
これは大阪のある社長が「うちのホンマの社長は聖天さんです。私は番頭です。」という心と一つ。
聖天さんお商売を預かっているという心。だから尊天さんの意に沿わない商売はしないんですね。こういう社長さんは。
勿論、全員がかなう訳じゃないです。祈願が叶わない人もいますが、それは何か別な意味がきっとあったはず。

そう考えています。

だから無理な祈りはしない。神仏ののぞみそうにないことはしません。
無理無体を平気で言って札ビラきって「これで、一番いいやつで御祈祷して何とかかなえてほしいんだよね。」とかいう人。
そんな人はなんにもわかっていない。
あんたは魔法使いでも雇うつもりなのかね?
過去そういうお方の依頼は全部断っています。
気に食わないので。
 
私には三人の忘れがたい師がいます。そのひとり私の武術の師匠もそういうの断る人でした。余技として手技の治療をしていたけど、生意気な客には「俺は金は欲しい。だがお前の銭は入らねえんだ!」という人でした。私はこの人から世間の裏も表も教わった。そういう師匠です。
だから、結局かなわない祈りは神仏の気持ちと離れた祈りかもしれない。基本的にはそう思っています。
だから祈るまでもなく、どうしても祈りたくないような内容はどうするか。
断るんです。
本尊が願わないようなことは初めから叶いっこないので断ります。


だから逆に祈ることがかなえば神様にご負担をかけたという考えでは祈祷していない。
この人の祈ることがかなえば、神仏もお喜びになる。
そういう気持ちで祈る。
「じゃあ叶ってもお礼参りなんていらないんじゃない。」と思う奴は見下げはてた二束三文のケチな奴だとしか言えない。
薄っぺらな人間としてのくだらなさが見え見えの言葉です。
違いますよ。
ともに喜んでいただく。
つまり喜びシェアするのが「お礼参り」です。


私の弟子の寺で「いつまでもこうやって先生に世話にならないで済むようにしたいと思っているんです。」という方がいたそうです。
信仰が何もわかっていないね。
その弟子と二人で笑ってしまった。
願いがかなえば神仏になんか用はないというのを丁寧な言葉でいっているんですね。この方は。
こっちだってそんなご利益食い逃げ希望の人間に用はありません。

お帰りはこちら。