金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

罪穢れと大祓祝詞

神道の大祓祝詞というのは面白いですね。
祝詞には昔は仏教系「中臣祓い」というバージョンもありました。
修験なんかでは盛んに使ったみたい。
この祝詞では祓戸の神様というのが出てくる。人間の罪や穢れをまずハヤセオリツヒメという女神さまが渓流のように海に運びます。その先には祓戸三神というのがいらして海ではハヤアキツヒメという神さまがその罪を飲み込み、さらにイブキドヌシという神さまが根の国、つまり地の底に吹き払う。
そして最終的にハヤサスライヒメという女神さまが罪穢れをさすらい失うのだという。
この川から海底までの流れを人の心なのだと考えると、普通我々の重大なストレスやマイナスの体験は忘れ去られれば潜在意識に入る。
よく言うトラウマというのは実は意識の上に上らないものを言う。
それこそ根の国に逢って力をふるい我々を脅かすのです。
だから自然の流れでそうなれば罪穢れはトラウマになるんです。
ただ大祓祝詞のいうとおりにやるなら、その過程を意識的に行うとさらさらと流して心の海に沈めて、心の深い、深いところのそのまた下の海底に沈めて失うという疑似体験をすることになる。
そうすれば罪はなくなるという。
普通ショックで自然に起こるトラウマ形成の過程を意識してやるんですね。
神道でいう罪穢れは仏教でいう悪事とは概念が少しばかり違う。被害者意識も含める。イライラやモヤモヤ、いわゆるマイナスのイメージはすべて罪穢れです。こういうのは健全な魂の働きを阻害するからです。もっと概念が広い。
神道の考えではそう言うマイナス感情は心の奥にあるのではなく、我々の神性を包んでいる。だから語源的に「ツツミ」転じて罪です。
包みがほどければそこに惟神(かんながら)のあり方がおのずから出てくる。
それが神道でいう本来の人間なのですね。みんなヒコ、ヒメです。つまりの太陽の神アマテラスの子供、日子、日女です。
この考えがないと大祓いは成り立たない。ただのトラウマ形成と同じ。
悪事を積み重ねるので「積み」では?という人もいるけどそうではないと思う。それは仏教的な罪業の概念です。着想はとてもいいと思いますけどね。
だから神道のやり方は積極的に忘れることです。
積極的にやったら忘れられない。眠ろうと頑張るのと一緒。
だからどうするか。
もうその件はおしまいになったという認識です。ひらたくいうと許しです。ここがもっとも大事だけど「忘れる」のと「隠す」のは違う。
此処ぶれちゃダメです。
罪を隠したらそれは岩戸隠れになってかえってマガごとが百出します。
だから神道は許しの宗教だと思うんです。
これは罪の責任をとらないでいいとかいう話ではない。責任を取るというのは罪が本来永遠不滅ではないからとるわけです。
責任とっても許されないならとったことにならない。
神道的に言うなら禊です。禊は本人自体が穢れているわけではなく穢れのみを洗い落とすという考えです。
でもって罪は本来ないものだからこれでなくなるというのが神道の考え。
ツツミは解いたらもう包みじゃないのと一緒。
 
キリスト教では原罪というのがあってそれをイエス様が我々に代わって磔になって贖ってくださるのだけど、でもそれでも罪はなくならない。
罪深き子羊のまま。
なぜならイエス様に罪かぶせちゃったからです。罪の回り持ち。
まあ、借金の肩代わりしてもらったみたいなもので神様やイエス様にずーっと借りが残る。
だからキリスト教は罪が好きですね。何かというと罪深い我々という。借金してること忘れちゃだめだからでしょう。
仏教畑の私がこんな話は変ですが、私は神道日本教の根幹だと思いますので。