金翅鳥院へ帰山し約三か月が経ちますが、この間に僅かながらも祈祷をさせて頂く機会に
何度か恵まれました。
私の場合、今まで自行として修法に取り組んで来たわけですが、しかし化他の行をするまで随分と長い時間がかかっております。
これはひとえに私の出来が良くないと言うことなのですが、実際今思い返すと密教の行についてよく理解しないままに、その目的を明確化しないまま行っていた経緯があったと思います。
密教であっても仏教の修行であって、その目的は菩提に至る、悟りを目指すと言う事に相違ありません。
それらの方法論をヒンドゥー教より取り入れた経緯がありました。
申しておりました。
この中共おばさんをジャイアントスイングで二階の窓から放り出したい衝動に駆られました。
密教の意義ですが、それはやはり方便に優れると言う事にあるでしょう。
悟りへ至る、自分自身の救済としてはそれで良いですが、より具体的な他者の現世の苦を除き和らげる実践的な化他の行として、
密教は優れた理論と実践法を持っているのだと思います。
加持祈祷による不可思議は間違いなく存在する。一見成就しえないと思われる事が成就する事があります。当然成就しないこともあります。
どちらにしても修行者は、日々自身の悟りを目指し修法に努める事が肝要であると思います。
悟りと言うと漠然としているというか、なんとも味気ないとでも言いましょうか、バチ当たりな物言いかも知れませんが、
自分自身の変化、変容であると言い換えると一転楽しいものに思えてくる。このあたりを私自身は修行をする上で拠り所としております。
密教にはこうした願望成就法としての側面があるわけですが、これは神仏の功徳力の一端に過ぎないと思います。
行者としては、祈祷法を誇りとすべきですし、また日々の修行の励みではありますが、祈祷は神仏の救済の一つの方法であって絶対ではないと思われます。
行者が日々修法に勤しみ、信者とともに至誠の念で祈る時には必ず祈りは通じます。
ここで通じると言うのは、祈願の成就を言っているのではありません。
神仏の働きも因縁により出来かねることがある。
神仏に通じている事実と祈願の成就は別であると思います。
密教の行者が目指すべきなのは、日々の修法により本尊と三密が相応し、その功徳力が日常の活動の中に顕れ
日常の出来事の中で人を救ってしまう。
密教の已達の方々からは、人柄の中にその功徳を感じます。
…まあ、今のところかなり難しいものも御祈祷で順調に結果を出しているので、修行の甲斐はあったといってよいと思っていますよ。
密教は別に霊能者だの超能力者的でなくてもいい。
そういうものとはまた少し違うものです。
しっかりとした方法論がありますから正しく励めば結果は出るはずだと思うのです。それなりの時間はかかりますけどね。 (羽田)