金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

化他行としての密教祈祷

金翅鳥院へ帰山し約三か月が経ちますが、この間に僅かながらも祈祷をさせて頂く機会に
何度か恵まれました。
 
私の場合、今まで自行として修法に取り組んで来たわけですが、しかし化他の行をするまで随分と長い時間がかかっております。
これはひとえに私の出来が良くないと言うことなのですが、実際今思い返すと密教の行についてよく理解しないままに、その目的を明確化しないまま行っていた経緯があったと思います。
 
私の場合は、そもそも密教の神秘性や呪術的な側面に興味を持った手合いでしたから、顕教よりは密教でした。。
しかし、古来インド仏教では顕教に通達した者のみが密教の門に入るものであって、初心の者が学ぶものではありませんでした。
密教であっても仏教の修行であって、その目的は菩提に至る、悟りを目指すと言う事に相違ありません。
顕教の法であっても悟れるわけですが、何故密教が存在しているのでしょうか。

密教が誕生した背景にはその当時のイスラム勢力の拡大、ヒンドゥー教の興隆、政治的な情勢等、民衆の要望に応えるが為、それまでの仏教では否定的であった儀礼や祈祷を行うにあたって
それらの方法論をヒンドゥー教より取り入れた経緯がありました。
仏教における密教誕生は、仏教のヒンドゥー教化であったという見方もありますが、密教の末徒としては全ての困難も密教誕生の為の因果であって神仏の計らいであり必然であったと捉えています。
インドで誕生した密教は、志那、朝鮮を経由し日本に根付き今日まで信仰されていますが、日本以外の地域ではチベットを除き滅んでしまいました。
そのチベットにおいても中国共産党によって、人民解放の名のもと侵略され風前の灯となっています。
しかし有力なチベット密教のラマ達は、欧米等国外へ積極的に布教活動をしチベット密教の修行者は年々増加している様ですから、その命脈は保たれることでしょう。
 
以前、放送大学の北京語の授業を受講しに行きましたが、講師の先生は中国人で共産党員のおばさんでした。
このおばさんの言うところには、「チベットへは侵略したのではなく、中国共産党が介入することでチベットの人々の暮らしは近代化され良くなった、だから良い事をしたのだ」と
申しておりました。
この中共おばさんをジャイアントスイングで二階の窓から放り出したい衝動に駆られました。
チベットは今やすべてが中共の管理下に置かれ、意図的な混血がすすみ民族として滅びの道に瀕しています。
 
密教の意義ですが、それはやはり方便に優れると言う事にあるでしょう。
悟りへ至る、自分自身の救済としてはそれで良いですが、より具体的な他者の現世の苦を除き和らげる実践的な化他の行として、
密教は優れた理論と実践法を持っているのだと思います。

加持祈祷による不可思議は間違いなく存在する。一見成就しえないと思われる事が成就する事があります。当然成就しないこともあります。
どちらにしても修行者は、日々自身の悟りを目指し修法に努める事が肝要であると思います。

悟りと言うと漠然としているというか、なんとも味気ないとでも言いましょうか、バチ当たりな物言いかも知れませんが、
自分自身の変化、変容であると言い換えると一転楽しいものに思えてくる。このあたりを私自身は修行をする上で拠り所としております。

密教にはこうした願望成就法としての側面があるわけですが、これは神仏の功徳力の一端に過ぎないと思います。
行者としては、祈祷法を誇りとすべきですし、また日々の修行の励みではありますが、祈祷は神仏の救済の一つの方法であって絶対ではないと思われます。

行者が日々修法に勤しみ、信者とともに至誠の念で祈る時には必ず祈りは通じます。
ここで通じると言うのは、祈願の成就を言っているのではありません。
神仏の働きも因縁により出来かねることがある。
神仏に通じている事実と祈願の成就は別であると思います。
 
密教の行者が目指すべきなのは、日々の修法により本尊と三密が相応し、その功徳力が日常の活動の中に顕れ
日常の出来事の中で人を救ってしまう。
密教の已達の方々からは、人柄の中にその功徳を感じます。


…まあ、今のところかなり難しいものも御祈祷で順調に結果を出しているので、修行の甲斐はあったといってよいと思っていますよ。

密教は別に霊能者だの超能力者的でなくてもいい。
そういうものとはまた少し違うものです。
しっかりとした方法論がありますから正しく励めば結果は出るはずだと思うのです。それなりの時間はかかりますけどね。 (羽田)