金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

世襲の坊さんは駄目なのか?

何事にもプラスの面とマイナスの面があります。
ほとんど世襲になっている寺院の住職。たしかに基本的にはこの在り方そのものは感心しないですね。
この間も東京でタクシー乗ったら、運転手が最初から最後まで坊さんの悪口言いっぱなし。まあ、それも道理で新年に挨拶に行ったら住職が寺にいない。どこへ行ったと思ったら愛人の家にずっと入り浸り、そこからたまに寺には通っているありさまだそうです。
まあ、「それもこれも坊主にならなくてよいような奴が寺や財物欲しさに、親の後継いで坊主になるからだ!あいつらはふざけてやがる。」とかなりのお怒りでしたが…。


まあこういう類のことはよくききますね。
 
でも坊主になりたくないのに寺に生まれて坊主にさせられた人の中にもまじめな人は沢山います。
考えてみると、そういう人は実はまず仏教徒になる練習からしてるんですね。
仏教なんて興味ないし懐疑的だったけど…どう理解すれば自分になじむのか、どうしたら信仰が理解できるのかを悩んでこられたわけです。
だから彼らはどうしたら仏に様に手が合わさるのかというところから始めているんです。
ある意味此れはすごいですね。
なぜなら、檀信徒に「どうして私は仏教徒になれたのかという話」をすればそのまま、信仰のない人へも良い布教になるんです。
はじめから仏様ありき、信仰ありきでなくそういう話なら分かるという人もいるわけです。
うまく信仰を得られれば世襲のお坊さんはそういう一般にヒットする立派なお坊さんになれるわけです。
そこは「信仰はあって当たり前」と思ってお寺の世界に入ってくる在家出身の坊さんにはみおとしどころかも。
ちなみに私もそういう在家出身です。まあ、今でも実質は全くの在家ですけどね。


だから実際、世襲で坊さんになった人でもいい和尚様はいっぱいいます。
そして、わざわざ在家からで来た人でも勘違い坊主や駄目坊主は山ほどいますね。
だから世襲だから一概にダメとかいえません。同じ理屈で在家からわざわざ坊さんになるくらいだから必ずしも志が高い人物とも言えない。


出家を希望するとかしないとかという前に仏縁というものの存在も考えてみたらいいのかもしれませんね。


以前、わたしが若いころある偉いお坊さんに呼ばれて怒られていたら、その時、机を掃除していてひどく怒られた小僧さんがいた。
なぜかというと灰皿を下げるとき私が一言「御煙草もよろしゅうございますか?」と聞いた。それなのになぜおまえがそれを言わないのだということらしい。
「おい、こいつは在家だぞ。在家ができて坊主の子の御前がそれしきの配慮できないとは何事だ!」というお叱りでした。
一転してお怒りは私でなくそっちに行ってしまいました。
申し訳ない限りです。そのすきに逃げてきちゃった。


でもね。「坊さんの子供の癖にとおっしゃいますけど…もともとは子供がいる坊さんなってあるわけなかったのにね。
今のお寺は変わったもんなんだね。」とその時はこころのなかで思いましたね。