金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

お性根を入れ替えるべきは誰でしょう?

先般、あるご僧侶がお見えになりまして、こんな話を聞きました。
なんと!ある行者がその人の知っているお寺の本尊のパワーが弱いからとかいうので開眼しなおしたというのです。
これはビックリですね。
ところが最近、どうもその行者の評判が良くないらしく、そこのお寺もそれを聞いて、ほとほイヤのなので「もう抜根してしまいたい。失敗した!」と思っているらしいのです。
相談は一体どうしたらいいだろう…?ということでした。

大体が本尊のパワーが落ちるという表現は実は落ちているんじゃなく、ろくに拝んでいないということをいいます。
ただ、そういう表現するだけで仏自体がダメになんかなりません。
当たり前やんか!

だからそんなの抜いて変えるのではなく、一生けん命拝めばいいんですね。
勿論まがまがしい雰囲気の霊場はあります。それは拝んでいるやつがダメなんです。そういうのは御性根入れ替えたって同じことです。

個人の念持仏や誰か特定の方の菩提のために作られた仏像とか以外は、基本的に入れ直しはいりません。
例えばはじめから呪いをこめて特定の人を調伏したものなんかは縁自体が悪いのでこれは廃棄します。欲のカタマリみたいな動機で作った仏像も駄目。
そういうのは形が仏像なだけの「咒具」にすぎません。
入れ替えじゃなく破棄です。
これに対してお寺の本尊はもともと不特定多数の人々の福祉のためにありますから全然違います
それも長い拝まれた歴史があればびくともしない。
そういう仏像なら不世出の高僧ならいざ知らず、そこいらの中途半端なヤツが入れなおしたとしても無理なんです。
勿論、私も「そこいらの中途半端な坊主」なのでそんなの無理なんです。
ここで大事なのは「継承」ということです。
仏法自体それで成り立っている。
「着々相承」ということです。
それを無視して本尊の御性根を入れ替えるとか、もっとひどいのは本尊を取り替えちゃうなんてのは継承がわかっていない。
継承の価値がわからないのはなぜか?
傲慢だからです。

今まで多くの人がしてきた祈りの対象を自分一人の考えだけで変えて仕舞う。これが傲慢でなくて何?
悪い意味での新宗教的な発想。
こういうのは仏法が理解できていない証拠です。
なんでも自分流にやりやすく変えて仕舞う。
勿論、皆のために改めるべきこともあるでしょうが、そこは慎重さがいることで住職でも軽々にしてはならぬことです。

この間も印や真言を勉強しているという人から電話がありました。あくまで勉強しているので伝法は受けていない。得度もしていない。在家の五戒すら受けていないというのではまあ研究対象としてはどうだか知りませんが、真言はともかく印相なんて「手遊び」の域です。
「相承」のそとにあるものは法ではない。

だから、そんな「継承」のわかっていない人がお開眼したといっても、逆にそれを取り払うのもそんなのは実は大変じゃない。簡単なんです。
どうするのか。
基本的には「古仏発遣」して再度「古仏開眼法」をすればいいのです。
そうすれば元の仏さんの縁が戻ります。
仏像の個性とはその仏像の縁なんですね。
例えばお不動さんは世の中にいくつあってもお不動さんです。
ただ縁が違うだけ。
これが弘法大師だともっとわかるでしょう。
そんなに何人もお大師さんがいるわけないじゃないですか。
だけど縁によって仏像には色々個性のようなものが累積されていきます。
それに対してあとからちょこっとばかり拝んだものなんてね。
そんなの取るのは表面についたヨゴレをぬぐうようなものですから。
僭越ながらそれをお伝えしておきました。

それにしてもバカだねえ。
歴史ある寺院の本尊をパワーがどうとか抜かして開眼しなおすなんてねえ…どうよ。
どこのどんなエライ先生か知りませんが、世の中には思いあがった人間もいたものだと、この話聞いてあきれて開いた口がふさがりませんでした。
一体何様なんでしょうね。その人。
評判悪くなっても不思議じゃないね。そういう人は、
魂入れかえるべきなのは仏像じゃなくそのお方じゃないのでしょうか?