金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

我が阿弥陀信仰への道

わが師の教えたところでは聖天信仰は観音信仰へ、そして最後には阿弥陀信仰になっていかないといけないという考えでした。
つまり現世利益の信仰は自利利他の菩薩道の信仰へ、そしてさらに穢土を離れ出離を志す信仰に至らねばならないということなのだと思います。
やはり前途のある若い人には聖天様のような、まず願望中心の信仰でいいのです。望みがないのはいけません。
ある高僧にも「欲がないなどというのは必ずしも褒めたことではない。」というおさとしを頂いたことがあります。真言密教では大欲といいますよね。
そしてある程度社会に出て功成れば観音の自利、利他の施しの心が出てこないといけない。わかりやすくいうなら社会性のある祈りと言っていいでしょう。
さらに晩年に至れば阿弥陀信仰。
後生の良きことを願い、もっぱら徳を養い、利他中心の祈りというのが理想だと思います。
今はありませんが昔、天台宗に「玄旨帰命壇」という念仏信仰がありました。本尊として摩多羅神という神様を立てた。ほかにも明星天子を拝んだりする特殊な信仰です。
その中で呼吸さながらに吸うのは弥陀の来迎、吐くのは往生と心得、念々歩々それを思うという行法があります。
なかなか素晴らしいと思いますね。
摩多羅神というのは鼓を持った三河万歳のような神様に二童子がついて踊るさまで描かれますが、実は本地は「シャモンダ天」という猪面の荼枳尼の部類です。
荼枳尼の部類ですから人の肝を食べるのですが、食べてもらわないと無事に往生できない。
肝をたべられることで我々の悪業が消える。考えれば我々は日ごろ散々ほかの生き物を殺しては食べています。
だから最後にはこちらが摩多羅神に食べられることでやっと食物連鎖のようなかたちで決着がつくんだね。そう思います。
ちなみに天台の念仏は基本的には融通念仏です。
お互いの念仏が感応しあう念仏。
此れって弘法大師の言われた「六大無碍にして常住瑜伽なり」の念仏バージョンみたいなものですね。
「六字無碍にして常住極楽也」みたいなものでしょう。
天台の極楽は己心の浄土ですので、浄土宗の方は聞けば極楽は実報無障碍土だということらしい。
まあ、ともあれ、もとより罪悪深重の凡夫であることはいささか自信があります。しかしながら法然上人の言われた深心も回向発願心も薄い私にも阿弥陀信仰ができるとするなら、こんな信仰ならできそうなんですが…。
 観無量寿経の観想念仏は密教的で面白そうなのでやってみたい気がします。チベット仏教なんておそらくこっちが近いでしょう。
無量寿経の十八願には「唯除五逆誹謗正法」とあって、念仏しても「五逆誹謗正法」は往生しないけど、観経の方はオーケーなんですね。もともと関連はあっても、おそらく此の二つの御経は別々に成立したんでしょう。温度差感じます。
此の「唯除五逆誹謗正法」をそう読むんじゃなく「ただ、のぞく五逆、誹謗正法」とよむのだと、ある真宗の教師が教えてくださったけど・・・ウ~ン、経文の読み解き方としてはちょっと苦しいんじゃないですかね…?どう思います。
そもそも日本の浄土教は善導大師の「観無量寿経疏」が原点にあるのですが、とかく大経が重い。もっと観無量寿のほうも研究したらいいのにね。