金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

「只管打坐」の前提は?

只管打坐とは曹洞宗の禅のあり方でいうところです。臨済公案禅と対照的に宗門の特徴とされます。
私は駒澤大学という曹洞宗門の大学にいました。
そのころは学部で心理学をやっていました。私のうちは寺でも何でもなかったですが、心理学やりたくて駒澤に行きました。
でも教養課程では禅が必修なのが禅宗の大学らしいところです。
そもそも駒澤大の前身は「栴檀林」という僧侶のための学問所だったのです。
今日でも座禅やりに行くと姿勢や座り方やって、数足観という数に呼吸を合わせて勘定するという単純な方法をとる。
100までやって繰り返す。ビルマ(ミャンマー)なんかだと数は100ならぬ8だそうです。
一日禅寺なんかに行くと大概そうやって教わって帰ってくる。
最も呼吸が整うと色々いいことがあるので生理学的にはお勧めです。
でも只管打坐は「ただ座れ」でそれでいいんだというのは専門の僧侶に言うことです。
ただ座るのでも基礎的な教学があるかないのかでリソースは全く違うのです。
「ただ座る」のは蒸し料理器みたいなもの、中にお肉やお魚や野菜が入っていればおいしい蒸し料理ができます。
でも何にもなければ料理にはなりません。
素人がただ座るのはこれです。
だから八正道でいう正定が大前提にないと只管打坐でも悪くすると外道の瞑想になる。
正定というのは諸行無常諸法無我、寂滅為楽という三宝印がないといけない。
諸行は無常で宇宙は常に変化し少しも止まっていないし、諸法は無我でありで全く独立した我などというものは存在しない。最後の寂滅為楽は一切行苦とどちらが入るか説によって違うけど同じことです。
人法ふたつながら無我であるからそれに執着すれば一切行苦、離れれば寂滅為楽ということです。この大前提がないと仏教の禅にはならない。
あくまで禅定は八正道の最後に来るものです。
だからヨーガでも同じでヤーマという禁戒と二ヤーマという精進があってはじめてヨーガでしょう。ただ体操みたいなポーズのみや、瞑想して「ああ、光が見える!」なんていうのはヨーガじゃないと聞いています。
大概、瞑想していて変成意識状態になってほとけ様が出てきたなんて言うのは駄目です。いわゆる魔境です。
座禅の対象は「法」であって「仏」という人格じゃないからそんなの出てこないのが本当。
対象外が出てくるのは間違いです。
いわゆるスピ系( 神秘体験期待症候群 )の人に座禅させるとそういうことやたら言って喜ぶ人がいます。
「守護神様が出てきたの!」とか「座禅ってすごいですね!、座禅してたらすごい光が見えて神が愛だとわかっちゃいまいした!」だの「前世が見えたの」とか色々目を潤ませておっしゃいます。
「…あ、そう・・・」
この人「アホだ」と思うけどそれ言えば怒るんでしょうね。
こういう人につける薬が欲しいものです。
「それ、魔境です」なんて言おうものなら「あの先生は全然判ってない。
!駄目先生。」でこちらがダメ出しされるのが落ちでしょう。
逆に密教は法じゃなく仏が対象ですから仏様が出てきても必ずしも間違いとは言えないとは思うけど…。