金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

一切皆苦

色々生き詰まってしまって何とかしたいという相談があるけど、そういう人ほどあまり信仰という言葉は出てこないんですね。
もう、頭の中は良くなるための方法論オンリーなんだね。
勿論気持ちはわからなくはないのですが。
祈願、祈祷、方位術、開運のおまじない、風水、改名、いろいろあるね。
人間とことん困るところまでくるとなんか、逆に一挙にすべてがパーッとよくなる方法ないかなと思うだろうけど残念ですがそれは知りません。
まれに宝くじ当たる方法とか聞いてくる人もいる。
でも、なにかそれについて知ってることがなにかあるとするなら、「そんなことはまずできないですよ。」ということです。
運がとことん落ちているからこそ、ひたすら幸運が舞い込むことを望んでそういう妄想おっかけているだけです。
こう言うと身も蓋もないけど事実です。

人間には実はどうしても自分の努力だけ自分の力だけで上がらないと駄目な絶対水準のようなものがあります。
そこ上がんないとどうもならん。
正直「何とかしてあげたい」「何か私にできることは?」と思っても何もできないですね。
大事なことはそこの自覚のみ。
できることはせいぜいそれを分かってもらうお手伝いだけです。
鳥だってまずは卵の殻割らなきゃまず外に出て育たないでしょう。
そこのところも全部マジカルな方法でとかいうのは無理なのですね。
此れ人間としての基礎の部分ですから。
それは基本的に自分でやらないと。
病気なら生物学的基礎。社会生活なら社会的基礎はご自分でしていただくほかない。
どういうことかと言えば病気ならまず健康を大切に考えて養生する。社会生活ならちゃんと働くとか住所定めるとか基盤を作るということですね。
そういう時になにか術的にできるとするなら、うまくいって全く動けないものが何とか少し自由になるというところかな・・・。
それはあると思うけど、でもそこから先も楽々とはいかないね。
人生は基本的に辛いもの…というより生き物は基礎的に皆、すべて大変です。仏教では「一切皆苦」っていいます。この言葉イヤですよね。
それは認めたくないとってもイヤな言葉だけど、実はそれを認めないと幸せもわからないかもしれません。
私は人間は幸福になるために生まれてきたとは思わないのです。
極端な話が生まれてすぐ死んじゃうお子さんもいるのにそんなのウソに決まっている。
でも誰しも幸せとは何かは考えないといけない課題だと思う。
幸せは不幸の対語で「絶対の幸せ」なんかないんですね。だから殺人宗教「オウム真理教」のうたい文句「絶対幸福」「絶対歓喜」なんて言葉に踊らされてしまった方々はそこが盲点だったんではないかと思うのです。
判らないのに「とても素晴らしいものなんです!」という素晴らしいというイメージだけが心にヒットしている。
でもなんだかわからない。言葉のイメージだけ。ヴィジョン無し。
「うちに入信すると幸せになれますよ。」なんてよくある宗教の誘い文句だけど、フンなにをいってやがる。人間そんな簡単に幸せなんかになってたまるものですか!
よそ様を悪く言うんじゃないんです。
それはうちの寺だってまったく同じこと。
もし、金翅鳥院の講員になればそれで即幸せになれるのか?
「なれません。絶対に。」
どこかに入るのにお金払うだけで幸せになんかなれるわけない。
幸せとは何か?
「これが幸せですよ」っていうことをいうはなかなか難しい。
でもただ、ただ、まだ叶わぬ希望が叶うことが幸せだとひたすら信じているうちは・・・幸福とはどこまでも絵に描いた餅でしかないように思うのです。