金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

双身毘沙門天とシャドウ

「双身毘沙門天」は時々拝む仏様ですが、聖天様と違って背中合わせの鎧を着た神様が二体のお姿です。
二体とも毘沙門天に見えますが独鈷を持つのが毘沙門天、輪宝を持つのは吉祥天とされます。お顔はどちらも忿怒の形相でとても吉祥天には見えないのですが…でもとてもよくできたお姿と思います。
なぜそう思うのか?
ユングの「深層心理学」では我々の知らない無意識の中にある自分のイメージである原型(アーキタイプ)が潜んでいる。これって究極的には仏性のようなもので最終的に統合されればゼルプスト=自己が出現する。
このゼルプストに象徴されるのは「自己」とは言っても普通の「自分」とかアイディンティティの意味じゃないんです。「真我」「仏性」ともいうべき存在で禅宗で一円相で表すところ。
ネオ・スピリチュアリズムの方々のいう「ワンネス」と同じものだと思います。
ただ、勿論そこに行くまでに様々な統合が必要です。
シャドウは心の原型としてはそんなに深い領域のものではない。むしろ一番最初に出会うべきすぐ意識下に潜むと言っていいアーキタイプですが、それだけに我々に強い影響があります。
シャドウとは「影」ですから自分の表面「光」とは反対の性格です。
一番わかりやすいのは男性におけるアニムスと女性におけるアニマつまり内なる異性です。
これはどんな男らしい人、女らしい人にもある。人間全てに内なる異性はあるのです。
むしろそういう人ほどその力は強いかもしれません。
双身毘沙門のお姿を見るとき、私はいつもそのことを思い出します。反対の性である毘沙門天、吉祥天はお互いがお互いのシャドウであり、あえてそれを背中合わせにしているところが心憎い。
つまり対極側にあるものの統合止揚。それこそがシャドウの統合なのです。
だから男性も女性も内なる異性を統合することにより、より豊かな人格を形成することになります。
この姿が菩薩でしょう。菩薩には男女両性を超えた人間の姿が現されています。実は超えたというより統合した姿だと思う。
シャドウは「性」だけじゃないのです。
例えば心の「闇」や「悪」は「半天婆羅門」として表現される。
半天婆羅門は毘沙門天の弟ですがランカー島(バングラディシュ)から兄の毘沙門天を追い払った悪神です。ラーマヤーナでは敵役で有名な悪魔トサカンと同じです。。
毘沙門天の善に対する悪、光の属性に対する闇です。
仏教的に言えば善悪不二を現した姿ということになる。
善と悪は別々なものではない。内なる異性を認めるように内なる悪を認めないと人に成長はないと思います。
親鸞さん的に言うならこれ、「悪人正機」ですね。
光の極みに神があり、闇の極みに悪魔があるとするなら、神と悪魔の統合です。お互いがシャドウなのだから。
ここが密教の最もすごいところだと思う。
闇がなくなるにはそれを追いやるのでなく、光を当てれば済むこと。
常に矛盾しているとみられることが実は一枚のものの裏表でしかないことを語るものです。
聖天様との違いを言うなら「リビドー」のままに素直に向き合う男女二体の聖天様は我々の強い本能の象徴でもある。
強い正しい本能は基本的に我々の味方です。
だからあれこれ余計なことを考えないように、お顔が象さんなんじゃないかと思うのです。
動物的というのは裏を返せば嘘がない。あるがままということ。そういうことなのではないかと思います。