金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

全て自分の問題


 
曼荼羅をみると中心には大日如来様がいらっしゃいます。
やはり真ん中におられる大日如来様と言うのは、この世を生きる我々そのものなのだなと
実感致します。
大日如来様はこの宇宙を生々流転、運転せしめている根本的な原理そのもの、つまり「法」を仏格化された仏様ですが、
私たちの存在もこの大日如来様の「法」により生じ、それぞれの生活を営み、そして「法」により死んでゆく。
行ってみれば、私達は大日如来様の中で生まれ生きて死んでゆく存在だと言えるのだと思います。
そうして鑑みてみると、我々は宇宙の一部でもあり、自己自身にとってはまさに大日そのものであると言えると思うのです。
 
私たちは、生まれてから死ぬまで「自己」と言うものから出ることは出来ず、
「自己」としてこの世に生じれば、「自己」と言うフィルターを通してしか物事を認識することが出来ません。
だとすれば、如何にして自分自身がこの世を「よろしいもの」であると認識できるかは「自己」にかかっているのだと思います。
そしてその「よろしいもの」と感じる人々が多ければ多いほど現実の事象も人々が「よろしい」と認識する方向性を持つのだと思います。
 
よろしい自己とは如何にして作られるか。
仏教では「貪・瞋・痴」の三つの心より生じる毒を戒めるよう勧めます。
貪らない、怒らない、愚痴を言わない、この三つの行動を戒めます。
日常を生きる上で、この負の感情を想わない事は難しい、というより不可能でしょう。
ですから心にこれら三毒の心の働きがあらわれた際には、言葉や行動にあらわさないよう努める必要があります。
 
それは我慢ではないか?
我慢ではありません忍辱です。
我慢ではなく忍辱と認識します。
 
これを数年にわたり実践すれば意識の方向性が変わります。
自らの方向性が変わると言う事は、自らを取り巻く人々や事象の方向性も変わると言う事です。
三毒を戒めるとは開運法の側面を持っており、それは持って生まれた福徳によりあらわれ方は違うとはいえ、
重要な事は現在の自分を取り巻く状況は確実に良い方向へ向かうと言う事です。
 
そして、自らが大日であるとすれば自らが認識する問題と言うのもすべて「自己」より離れるものはなく、
ある事象や人が悪しきように思われることも「自己」に起因しております。
その原因を「自己」の中に探るには「禅定」が必要です。
 
お寺で飼っている海水魚の水槽の掃除をしていて思うのは、掃除に取り掛かると砂や澱が舞い上がり水は濁りますが、
しばらく静かにしておくと水は透き通って来ます。
これは人間の日常生活と一緒で、一人でいる時には澄んでいられますが、他者と接触すれば意識の澱が舞い上がるのは必然であり、
心が動かないものは死んだ者だけで、重要な事はその時に自らの心が動揺した際、澱により現実の事態や人が歪んで見えていることに気付く事であるかと思います。
 
私自身のテーマでもあります。