金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

富士山の夢

富士山を拝む夢。
夢の中に富士山が出てくる。ああ富士山だ。
パンパン柏手打つ。
ああ、浅間様だ。本地いろいろあるよね。大日如来
十一面観音だっけ?不動明王だっけ?
そう思っていたら「富士山は富士山だろ」と夢の中で飯縄様?にいわれた。お姿はないんです。夢の中でも声だけ。
『富士山、一々「仏」になおして拝むなら富士山でなく仏を直接、拝めばいいだろ。では何故山を拝むのか?』
なるほどね。
富士山を富士山として拝むとどうなる。
山って土が隆起して水が流れ出て木が生えて結局自然全部がわかりやすくあるところです。
だから自然を拝む。その代表が山。
一神教的には山なんて拝んでどうするってことでしょうね。
でも、我々日本人は拝んでいけないものなんてない。
何も「特別」だから拝むわけじゃない。ここ大事です。
つまり富士山は大日様だからありがたいんじゃないんですね。
逆です。ありがたいから大日様なんでしょう。
「山を普通に拝むなら、拝めないというものには修験道などわからぬ。」そういうことなのでしょうね。
キリスト教でゴッドを拝むのは彼が我々の作り主で究極の絶対君主だからでしょう。日本人にはそういう考えはない。
同じ自然の命を見て拝む。狐でも烏でも拝む。木でも拝む。
究極、自分も拝む。
それはたぶん、修験道でいう「自身自供養」の延長なのですね?
飯縄様。