金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

離愛金剛の心

朝起きたら布団の上で座禅するのが習慣。
今朝も起きて布団の上で座禅しながら、何となく唱えたくなって愛染明王の真言唱えていたら心の中に赤い如意宝珠のようなものが見えてきました。
これ、見つめて真言を唱えるとだんだん心が高揚し嬉しくなってくる。
「ああ、これ慈愛の心の象徴なんだな」と思う。
愛染明王って恋愛の仏様みたいに思っている人が多いけど「離愛金剛」ともいうんですよね。
ああ、これってすごくグローバルな仏の慈愛なんだなと感じました。
でも「恋愛」は愛は愛だけど「排他的な愛」ですよね。
そんなこと思っていたら
例によって飯縄様の短いメッセージ。
「その (排他的な愛の) 心を離すのが離愛金剛の働きだ。わかるか。」


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恋愛は排他的なのは当然。
勿論、それでないと成り立たない。
あっちこっち恋愛対象がいるんじゃ揉め事になるからね。そういう方もいるようですけど。()
それはそれで勿論、排他的でいいんですが、でも、それがグローバルな愛の中の恋愛なのか。
そうでなくて周囲と隔絶して孤立している恋愛なのかでは違う。
愛するのはこの人だけ、ほかは違うからどうでもいい。
これ駄目です。
勿論、性愛というレベルはそうなんだけど「この人以外何もかもいらない。すべて捨ててこの人と」っていう恋愛は聞いた上ではステキだと思うかもしれないけど、それ自滅コースです。
必ずうまくいかないね。
たとえ駆け落ちでも行った先では周囲との調和の中での駆け落ちでないと駄目でしょう。
周囲もひっくるめての「愛」。その中での特別の愛でないと駄目なんですね。「お陰様」を忘れない恋愛が大事。
排他的なことで愛を証明しようとするのは愛の逆コースです。
「だからあの人さえいれば何にもいらないんです」なんて祈願はまず叶いません。仏とつながれないから。
周囲も含めて愛でないとね。
やがてその赤い宝珠はつぼみのように開いて八葉蓮華になり中からは愛染命王の種字ウウーンが生まれました。
花は一人開くんじゃなくて水や空気や土や太陽、あるいは虫の力も借りたりして開くんです。
花それのみ、それだけじゃ開きません。
何もかもいらないんじゃなく、恋愛祈願するならあれもこれも恋愛も…とぜいたくに祈願した方がずっといいですね。多分。
好きな人との愛を排他的な愛で証明したりするのは、少なくとも愛染様の御心に適わないように思います。