天部信仰は聖天様に限らず難しい。
それは行者にとっても全く同じ。師匠は「嫌われたらおしまい」という表現でした。
どういう人が嫌われるの?まず、真摯な心のない人ですね。
それから軽い気持ちの人もそう。
天部供養の目的は「天尊を供養したい」というその一事以外になにかある人は基本的に駄目ですね。たとえば仏法守護とかそういうことは別ですが。
護法神なので「何々様を祀るとこう言うご利益があるから祀りたい」などというのは素人ならいざ知らずプロの世界ではだめです。理由にならない。
でもそういう心なのかどうか。そういうのは外から決めつけられないですよね。授かるときは皆丁寧にしてくるから。
でもどこか変。
そういう人は後で必ずえらいことになる。まともな人間なら考えられないようなことを自らしてしまうんです。化けの皮が引き剥がされてしまう。経験上そうです。
なめているとこっぴどい目にあわされます。人生が曲がってしまうくらいのことは考えられます。
私が世間のイメージとは違って「とっても厳しい神様なのだな」と思うのは荼吉尼天ですね。
世上いうようなお金がウハウハ儲かるとか、モテモテになる神様じゃないですね。最初から護法善神として屹立としている。
割合よく拝みますが拝むたびに身の閉まるような厳しい感じを受ける。
荼吉尼天の配下には色々いる。狐もいれば妖怪みたいのも。それ束ねているんですから甘くはないです。
だから昔から天台の相承では天部はうるさくいう。
なので台密では天部は基本的に秘法です。
秘法というのは授かるにふさわしくない人はたちどころに障礙となることもあります。
怖いと思われているのは聖天様、双身毘沙門、宇賀神、摩利支天、荼吉尼天あたりはトップですね。
このあたりはよほど変人じゃないと普通の坊さんは怖いのでやらない。
でもこの「怖い」という思いも絶対に必要だと思う。
軽々しく扱ってとりかえしのないことになるよりはね。
転ばぬ先の杖です。
罰は授けた側にも来ます。
第一やたらに沢山授かる人は大概障礙になって滅ぶ。見てきてそう思います。
授けた私も痛い目に合った経験がある。
私は幸い多くの天部を拝む機会を得ましたが、これは本当に必要な伝えるという役割のためだと思っているのです。法をして世に久しく住せしむ。つまりその目的は「令法久住」にあります。私の側から言うと天部も含め沢山の法を学ばせていただいたのはそれぞれの三昧の世界を知りたかったからです。
でも、そんなの全部は普通拝めない。
以前、荼吉尼天の法を多くの方に伝授しました。それは荼吉尼天ご自身が「多くの寺では我がともがらは満足に祀られておらぬ。この法は絶えぬよう残さねばならぬ」といわれたのでそうしましたが・・・。
これも目的は「令法久住」にあります。でも普通はこういうことは難しいし、しない。
思うところあって私もこれからは天部の法は原則としてもう授けないことにしようと考えています。僭越ながらこの人は必要と私が思う人のみ。
人様がどうこうというより自分の反省からそう思う。
三昧耶戒には不慳吝法というけど、こと天部に関しては乞われるままに「不慳吝法」ではいけないと思う。
そとから来る人を一々人の品定めはできない。
つまり「あなたは器じゃない」などというナマイキで失礼なことは言えないので、今後は兄弟弟子など特定の方の紹介のない人には顔見知りと言えどもまず伝授しないと決めようと思います。
それは直の弟子であっても同じに思います。
まあ現在、新しいお弟子さんで密教修行を希望するならやってもいいかなという人は三人いるかいないかくらいしかいないので、天部となるとそこからまた少なくなるかな。
天部までは一人もいないかも。
狭き門ですが考えてみればそれが本来なのです。