天台の理からいえば前提に「一心三観」がある。
空、仮、中です。
空観は人天乗を見惑、思惑から離れ閉め、
仮観は声聞、縁覚、菩薩の三乗を塵沙の惑から離れしめて教導の道を明らかにし、
中観は大乗の菩薩をして元品の無明を離れしむものという建前があります。
これによればまず人、天が断つべき惑は「見惑」(見解の間違い、因果論の否定や順世外道、断見など)と「思惑」(いわゆる財、色、食、名、睡の五欲)です。
此れには空観が大事、つまり天道や我ら凡夫には空の理を悟ることが先決です。そこで般若心経などを読むわけなのですね。
だから一切神分に般若心経ということです。
最も天台の真骨頂は「一心三観」により「三諦円融」を止観により観じるもので、「次第三観」(三惑は順を追って退治する)の考え方が優位ではないので、法華経などを諸天に呼んでももちろん、法楽にはなるのですが・・・。