金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

六大無碍にして常住瑜伽なり

弘法大師のお言葉
「六大無碍にして常住瑜伽なり。」
高校生のころから密教に関心がありました。でも、この言葉は知っていたけど意味は今一つしっくりこなかったんです。
というより正直全然わかんなかった。

「六大無碍」ってどういうこと?まあ、概念は少し違うだろうけど五行の相克みたいのはないってことなの?だってお互い妨げないんでしょ?
「常住瑜伽」はもっとわかんない。密教行法を六大がしている?そんなバカな。六大が印相結んで真言唱えてるの?それはないよね。これってどういうことですか?
わけわからん。

今日、お浴油してたらそういわれた。
「おい、六大無碍にして常住瑜伽なりというだろうが?」と。
どうしてそういわれたのか?それはわかります。
御祈祷しているとき、「ああ、この人ってあまり熱心じゃないね。頼めば終わりで自分じゃ拝まないね。たぶん」とか「この人は熱心だけどね、この祈願内容は少し難しいのかも…?」その他色々ブツクサ…
そう考えていたら突然来た。

そうでうしょね。そうですとも!今ならさすがに高校生の頃よりは少しはわかる。
もともと私たちは皆六大つまり地水火風空識でできています。
他のものだって皆同じ。宇宙は全部六大でできてる。
でもそれだけなら一種の唯物論だけどそれが皆すべて仏性もっているってことなのですよね。
それだけじゃなく、皆「瑜伽」だというのは、その仏性は可能性としてどこかに要素的にあるとかそういうのじゃなく、六大がそのまま全て悟りの活動体なんだということでしょう。
皆、悟りの知恵をもって働き動いている存在。全部!
この六大無碍にして常住瑜伽のレベルでは「誰がどうとか」なんてのは関係ないんですね。
拝むも六大、拝まれるも六大。ともに常住瑜伽。
さすが弘法さまは素晴らしいこと言っておられる。
私は天台系の宗門を穢す身です。
だけど密教ということではやはり弘法大師を一にも二にも尊敬申し上げています。

見ることは表れること。認めることは現すこと。
だから、ご祈祷するなら、そいつを見つめなきゃだめだということなのでしょう。愚僧はそう思いました。