金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

滅罪の御真言

滅罪の真言は数多いですが本当にそれ唱えて過去の業が消えるのかというお話。
ウ~ン…。
過去の行為自体は変わったり消えたりしませんよね。私が人を殺して金剛輪印陀羅尼を山ほど唱えたって殺人は殺人ですから。
捕まれば牢屋に入って遺族には恨まれる。そこは同じ。


でもその先の業報は変わるのかも。それが今世か来世か三世先かそれはわかりませんけど。
勿論、直に消えなくても、例えば金剛輪印陀羅尼が善行を行う因になって、業報の出方が変わってくるかもしれませんね。

つまりは軌道修正がされる。

業というのは重なる傾向がある。つまり悪因悪果で終わらない。気づきがないなら悪い結果からまた誤った行動を生みやすい。雪だるま式に悪い方向へ行く。そこはストップできるのが真言の威力だと思います。
反省と方向転換の機会が与えられる。
そういうことだと思います。

気づきもなければ、行動が変わらずそのままなら、罪はとけない。カルマ(行動)の問題なんですから。
真言が因となってその人に変化が起こり、それが真に伝われば遺族の恨みが解けるとか緩和するとかいうことはもあるのかも。

人殺しは許せないというけど(私もそう思うけど)本当は殺したこと以上に、よくよく心の内を観察すると自分から愛する人や大事な人を奪ったことが許せないんですね。
勿論その怒りはもっともです。怒っていいんだけど・・・


でも、人を殺したこと自体が絶対許されないなら、もう何年も何十年も立って怒ること恨むことにすっかり疲れても、気張ってずっと憎み続けないと駄目ということになる。
刑期が終わろうが何だろうが許しちゃ絶対駄目だということ。
死刑になっても許さない。墓暴いて死体を切り裂いてもあきたらないということになる。


でも、つっこんででいえば、それってある意味、自分も許さないことなんですね。永遠に終われないってことでしょう。
幸せを奪われてしまったこんな目に合う自分はきっと罰当たりだと思うんです。自分に罪がある。呪われているのだとも思うかも。
なぜなら、そうでないなら、どうしてこんな目に合うのかわからないから。
本当に許せないのはそこ。
本当に許せないのは「理不尽」ということです。
たとえば、自分が前世で盗賊でありいっぱい人殺や強盗しているとわかれば、今回殺されてもそこは仕方ないと思うかも。

でもそうでないなら、納得できません。
多くの人はそっち。
自分が不幸な目に遭ったことを忘れてはいけないということ。
だからそのためには相手が死んでもどこまでもどこまでも恨まないといけない。恨むことと不幸なことは共依存なんです。どっちが欠けてもいけないんだね。アンバランスで自分に説明ができなくなるから。
そういうのは駄目というような権利は何もないですが、どこまでもそれでいいんでしょうか?
ずっとそれを維持しないと正しくない。
実際そういう習慣のあった国もあるようですが。

キリスト教では原罪というのがある。だから理不尽な目に遭ってもそれは仕方ない。
もし原罪がないとなると色んな不幸は理不尽だということになってしまう。万能の父なる神がいるのにね。
でもアダムとエヴァ以来、すべての人間は罪犯してますから、罰されてもどんな目にあっても当然だということなら不満も出ないし、神様を恨むような罰当りなことは避けられます。原罪がないなら神様って理不尽だよねということになる。
そこにはそういうことで折り合い着けて納得するという構造がある。
人間は不幸に説明がつかないと嫌なんですね。
納得いかないというのがただ不幸なことより嫌なんです。そこが納得行くならウ~ン…仕方ないか…と思う。
 
本当は過去の悪業を消すというけど、滅罪は新しい善業を作るということ。
不昧因果ですから。それ以外ない。
呪術で過去に遡って因果が全部ひっくりかえるなら仏教のテーゼは滅びます。人殺しでも泥棒でもやって真言唱えておけばいいと言うことになる。
そういうことではなく、真言は新しい良き業因を作ることができるということ。
リセットしてやり直すということは甘くないけどね。

でもそういう私だって貴方だって過去世で人殺しかもしれませんよ。日本中の皆が槍や刀や弓矢で戦っていた時代もあるんですから。
許したらそこに罪はなくなる。誰かがいない人の代わりに恨まなきゃいけないと思うのも含めてそれも許せば(手放せば)罪は消えます。

本当に許すのには忘れることです。たとえ過去世が何があっても知らないですよね。何も憶えてない。全てを忘れているからこそ敵同士でも今生では夫婦に成ったりもする。友人にもなれるわけです。
だから逆に忘れないということは許さないこと。

「貴方の私にした酷いことは絶対に忘れませんよ。…でも許します。」はあり得ない。それ偽りの許しです。
勿論、断じて忘れられないこともあるでしょう。
だから時間任せじゃなく許したいなら積極的に忘れる努力だって必要かも知れません。


大祓いの祝詞を知っていますか?
最終的に罪はどっかしらにいって失われてしまう。でも実在ならどこにも行かない。例えばペットボトルのごみを大海に捨ててもどこかにはあることになる。
でも罪の実態は実在ではなく、実はそこにそれがあるという認識なので認識が変わればそれも消えます。
「打つ人打たれる人ももろともにただひとときの夢の戯れ」
滅罪とは皆様に忘れて頂くことです。和解ってそういうことです。
例えば友達同士でも「アノヤロー!」と思うことだって思い出せば数々あるでしょう、でもそこは忘れたから今も友達なんですね。
だから相手に許して頂き、しかも忘れて頂く。そのような生き方をすることこそが本当の滅罪の道なのじゃないでしょうか。
滅罪の祈祷だって発動すれば実際はそういうメカニズムで動くはずです。