金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

師匠は酒代置いてトットと帰るべし。

褒める教育が大事だと言います。学校なんかでもそういう先生も結構出てきていますね。
誰もが等しくこのレヴェルまで行ってほしいという教育のもとではこれってとても大事なことかもしれません。
 
しかし、私なんかは仏門では師匠から褒められたことはほとんど記憶にない。「駄目だね。」とか「あんたなんかにゃできやしないよ。」いうのは四六時中やまほど聞いた。でもそれを酷いとか思ったことは一度もないね。「今はそうでもやがて、そうとばかりはならないぞ」という気概はあった。
「師匠とはそういう是非の判断を仰ぐもの」「弟子の非を指摘するもの」というのが当時の私の認識でした。いまでもそうです。
ダメ出しのために必要な存在。そう思っていました。
褒められる場合はまあ最高によくても「まあ、…それでいいわ」でしまい。
これが最大級の賛辞です。
その当時の考えでは何事もできて当たり前。できるよう修行するのが当たり前ですから。そのための修行でしょ。
それを何かできたからと言って一々ワンちゃんみたいに頭なでながら「よし、よし。やったね。」なんて言ってご褒美でもだすのか!ということです。

悪いけど人は自分が育ったようにしか後進も育てられませんね。

私も弟子から「褒められたことはないですね。先生には。」といわれた。よくいうよ。
「別にほめるとこないから」とも思うけどまあ、そう憎まれ口はいわず試しに褒めてみようかなと思いました。
まあ、でも褒め馴れないからあまり人が喜ぶようなことも言えていないかもね。かえって気持ち悪いかも。
お世辞は言えるけど実際に褒めるのはなかなか難しいね。
お世辞はお世辞でいくらでも言えますが、真実に褒めるのは世辞なんかじゃいけないと思うんです。
それは百害あって一利なし。
弟子にお世辞いうような師匠は師匠じゃないね。
お世辞は世の中の言葉の意味。だからお世辞だとわかったもの同士でないと成り立たぬ大人の挨拶です。だから勿論ああ、これはお世辞だとわかる。
お世辞は間違っても評価じゃない。実は好意の表示なのです。
それを本気にして評価と勘違いし舞い上がるのはバカの類。

でもそこで改めて考えるのですが、学校の勉強や職業訓練じゃないのだから、修行は褒めて進めるようなものじゃないね。
 弟子と師匠は生徒と先生でもなければ会社の上司と部下でもない。

先生と生徒では先生というのは生徒の水準をあげる義務がある。
でも師匠と弟子は水準上げる必要があるのは弟子自身でしょう。
先生にはこの生徒には無理だなどということはいえない。それでは先生失格です。

でも師匠というのはなんの世界であっても、この弟子にはこれは無理だという判断も時として大切な役割なのです。無理だと思いながらもそれを言わないのなら師匠は失格です。
先生は全員目標遂行の義務があるとするなら、師匠は無理なものは決してそれ以上勧めてはならない判断の義務がある。
生徒と弟子の分かれ目もそこにある。

「おはよう。今日はよくきましたねえ。」とか「今日のセミナーはいかがでしたかあ?」などととこちらから様子聞いているうちは全くの生徒だね。
生徒は角度変えればただのお客さんです。そういう風にニコニコ言葉えらんで接していうちは弟子じゃないですね。
でも弟子はそこのところは少々違う。
そして、師匠は先生じゃない。
私って先生の弟子なんですか?と聞く人もいるけど・・・それは本当は自分の在り方や態度が決めることなのです。
だから、いちいち、師匠が弟子の顔色見て褒めなきゃ進まないような修行じゃ、それは所詮は修行ごっこの遊びじゃないのかと思うのです。

 「褒めて進める」は世界が違います。だから才能ある大事な弟子ほどなまじ褒めて歩みを止めてはならないと思うのが本当です。
褒めなきゃ進めないような「なまっちろい人間」が世の中の苦しみに悶える人のよすがになんかなるもんか。できない人は生徒どまりでいい。
師匠が弟子をほめるのは自分を超えた時です。それだけ。
だから、わが師を超えていない私が褒められなかったのはいたって当然のことなのです。

私は師匠なんてものは酒の席にいたら酒がマズくなるようなのが本当のいい師匠だと思う。
「じゃあ、私はちょっと野暮用で」などと言って 余分に酒代置いてとっとと早く帰ってくれるのがいい師匠だと思っています。
 そして、弟子を褒めるなんて気色悪いことはしないものです。
 生徒なら褒めるけどね。