金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

法界を相手に生きる。


世の中、人に色々してあげたと思っても向こうはてんでそう思っていないことは多いものです。
最近はよくそう思う。
でも、それはきっとお互い様なんだなあと思う。
誰かがどこかでは私に色々してあげてるのに…と思っているかもね。
そういう自分も根性が卑しいのでしょうね。


向こうから見れば「あなたがそうしたいからしたんですよね。違うの?」という発想。
それがしてあげたと思う側にはそこは見えていない。
なかには色々してあげたから・・・このくらい頼めるかな?と思って何かちょっと頼みごとをしても「エーッ…それは…ちょっと。」と渋る人もある。
決して難しいことじゃなくてもそうなることも。
結局、当人に言わせればそんなことしなきゃいけない理由がみあたらないのでしょうね。
「なんで私がそんなこと?」と思うのでしょう。
まあ、恩もへちまもないと思うけど裏を返せばそういうものですね。
そこにあるのはただこちらの思い込みだけ。

とても世話好きでいい人でしたが、そういうことが繰り返されてついに人間不信になって誰も寄せ付けなくなった人を知っています。
そういう生き方してると終いには猜疑心の塊になる。
そうならないためには?
「そもそもなんでそんなことしたのかな。」「必要ないんじゃないのかな?」と思うことが大事。いらぬ親切はやはりいらぬのです。

やりすぎの親切は人は決してありがたく思わないんです。

たとえそれを認識していても負担に思うのでその人から逆に人間関係は遠ざかるものです。
そこを忘れない方がいい。
人は常に対等でいたがるものです。
例えば大金をかしてくれた人には返せないうちはとかは、近づかないのが人情。
かえって友達でいられなくなる。
世話に成ったら有難いけど…正直言うときっと「うざったい」んですね。
だから酷い話だけど大金かしてくれた人が死んだら逆に安心感があるかもしれません。「ああ、よかった。」
実際そういう話も聞いた。
ラッキーみたいに平気で言う。
まあ、証文があれば子供が取りたてにくるだろうけど。

何かしてあげれば喜んでくれて、その人からいざという時に何か返ってくると思うのが人情だけど、あにはからんや仏教からいえばこれは初歩的な誤解ですよね。

善因善果、悪因悪果は特定の関係で起きるわけじゃないですよね。
逆にただの親切の押し売りになっているのかも。

人に親切にしたらすぐ忘れること。
いつまでも憶えているくらいならしない方がいいでしょうね。
それは災いを呼ぶかも。
してもらったら忘れちゃ駄目ですけど。
誰の為でもなくそれが自分の為です。
うっかりするとそんなことも忘れている。

人を喜ばすのはいいことです。
喜んでもらえたら?というのもいいことです。
でもそこからなにかしらが帰ってくると限らない。
法界を相手に生きないと駄目ですね。
善いことも悪いこともそこから帰ってきます。
AさんにしたことがBさんから返ってくるかも?
BさんにしたことがCさんから返ってくるかも?
善いことならどこから来たっていいですよね。
法界の仕組みはそういうものです。
法界を相手に淡淡と生きましょう。
それが無詣碍というもの。