金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

見える聞こえるが霊能者に非ず


昨日霊能のことブログに書いていたら「見える聞こえるが霊能者ではないぞ」と飯縄様からときた。
「霊能なんかいらない」と言いながらこんな変なことを言ってちゃ矛盾でまずいかもしれませんが、考えてみると飯縄様の言葉は汎用的なんです。
誰かがどうとかのじゃないからまあ「お告げ的危険性」は少ないかなと思うんですね。まあ、ヒントやね。
ヒントだからどうでもいいし、無視してもいいんですけど面白いからちょっと書きます。

どういうことかというと、見えたり聞こえたり、感じたりする人はけっこう多いんですね。
良い方でも悪い方でも。
でも飯縄様はただそういう受け身なんじゃなく、自分が受け取った「それ」がどういう意味か?どうすべきなのかという分別が働くところが霊能力だというんです。
だから見えた聞こえたとやたら話すだけなのは飯縄様的にはそれは「霊能じゃないんですね。敢えて言えばそっちは霊感かも。
T・P・Оができてはじめて霊能。「霊」感にそれを活かして扱える、適切なる「能」力がないといけない。
もちろん「見える聞こえるが霊能者ではないぞ」だけで、そういう説明はないんだけど、私はそういう風に受け取ってます。言外にもなにかくるんですよね。だからあえて説明的なお言葉はいつもないんです。私がそう捉えるだけ。


昨日もそんな方の悩みの電話があった。
「〇〇と言って霊が寄ってしまうんです。影響されるんです。」ってなんかスピ系用語で言っていましたね。お話すると沢山そういう聞いたことないスピ系用語が出てくる。
真言とかほかの宗教でも聖句を唱えると苦しい。真言でもヒンドゥのマントラでも聖書でも祝詞でも一緒。
「これって霊が寄るんです。」というお話。それでご本人は説明し納得している。

でも、まったく違う宗教でも聖なる文句を言うと苦しいというのは霊じゃないね。
全く違う宗教のものを「聖なるもの」としてカテゴリーに入れて一括しているのは、ほかならぬご本人の意識以外の何物でもないからです。
なぜなら基本的にクリスチャンは真言は聖なる言葉とは思わないし、仏教徒は聖書は神のみ言葉とは思わない。別々です。
是、正体は思うに「罪悪感」だと思う。
天使呼ぶと楽になるそうです。「ミカエルさま」とか呼ぶ。
でも時間の問題でしばらくしか持たない。
人間が集中できるのは40分くらいだからそのくらいは天使に心を集中できるけどあとは無理なんだね。
でもおそらく天使のほうに全く無理じゃないだろうから、これもこの人の精神作用ななせるわざでしょう。
三界唯心。
実はこの人昔よく知った人です。
不運が重なって家族もいなくなり今は孤独。そういう不運は人に「罪悪感」を起こさせる。
根底にあるのは「私がよくないからこういうことになる。」という理解なんですね。断っておきますがこの人はなんにも悪くない人です。至って善人ですよ。

そもそも人間って一番嫌なのは「不可解」ということ。
神仏とか霊とか嫌いな人も根底はそれかも。わからないから。
だから、説明がつくと一安心する。
そういう習性です。
なぜなら、説明がつくのは解決の前段階だというのが私たちの中にあるんですね。
だけど逆にそれで問題原因を固定化させてしまう。
霊じゃなく「うつ病」と考えることはできませんか?
さらに「うつ病」と考えず憂鬱な状況下にあると考えられませんか?
という風に見方に多様性を持つ。
名前を付けることは呪術です。名前付ければ状況をくくれる。
あいつはケチと言えば、そうなる。つまり、ケチな人というイメージは共通了解に上がるんですね。それがどんどん広がる。
だから、そうしてしまうとと大概もう動きがとれなくなります。

動きの取れない人、良くなりにくい人は初めから「狐がついてる」とか「同僚の何とかさんが生霊送ってくるんです。」といってくる。
此れが治るのはその枠組みを外すことができないと駄目です。
勿論、全部否定するのじゃなく、それも可能性の一つとして残すはいいんですけど。
大事なのは状況把握を正確にすることで犯人探しじゃない。
「なぜそう思うんですか?」と聞くと大概不満げな顔します。
先様に言わせれば「折角、原因追及してそこはわかっているのにまたほじるなよ。」ということでしょうね。
でもほじるんですね。そこ大事なんで。
ほじるの拒否の人はそこでストップ。
でもほとんどが拒否です。その結論をもって先に進みたいのね。
でもそんなの争ってまでほじるのはまっぴらごめんです。無理。
だからうちは霊の問題やりませんよというんです。