金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

動物の霊障とは…

動物の権利「アニマルライツ」を尊重するのは難しい。我々と同等に動物を置くことは正しい正しくないではなく事実上、不可能です。
しかし、動物の福祉「アニマルウェルネス」というのを考えるのは万物の霊長たる人間の「義務」であると思います。

埼玉県のおぞましい人類の恥。猫殺しの税理士「大矢誠」が逮捕されました。「チャング・オルグ」ではこの外道が懲役になるキャンペーンやっています。興味ある人はみて下さい。
すでに一万人を超える署名が集まっています。
こういう無益の殺生は特に仏教では最も嫌うところです。

昔、若いころ、宗派の講習会である霊能者の話を聞きました。
年配のベテラン女性行者です。
ある男が面白半分に猫を捕まえては袋に入れて海に捨てていた。
そいつが病気になって訪ねてきたら…その光景が見えたのでその悪事を指摘したそうです。
そういったら「人間様の方が偉いんだから何が悪いんだ。」とかほざいて改めずに…しまいにはそいつはほどなく腎臓ガンで死んだそうです。
猫の念は「腎臓」に来ますね。猫自体も腎臓を悪くしやすい動物だからかな。

鳥撃ちが好きなお父さんを持つある薬剤師。「お父さん手足が痛んで曲がっているでしょう?」といったらその通りだったらしく驚かれた。
実は動物の霊障はパターンというか出方に特徴がある。
蛙を面白がって大量に殺した人にもあった。
皮膚が爛れていつも蛙の様に濡れているしつこい皮膚病になって治らないそうです。

でも、そういうことしないにしても私たちは殺生せずには生きられない。
だからこそ「いただきます」なんですね。
お百姓さんありがとうじゃないでしょ。
そんなことよりまず、さきに植物だろうが動物だろうが命を頂いたことのかたじけなさです。
我々は生き物は殺さずに生きられない。生きることは殺すこと。
だからこそ生命に敬意を持たないと駄目なんですね。
まったく殺さないではなく…実際は敬意を持つ事しかできません。
だからここが大事。

実際は薄汚い動物虐待のクオソヤジより、数からいえば保健所の方が沢山の犬猫を殺しています。漁師さんなんて毎日、魚を山ほど殺しています。
でもそこにおぞましい残虐を喜ぶような感情はない。
仕事だからするのみ。そしてそれは我々の為でもあります。
社会はその恩恵にあずかっている。
保健所だって決して「殺生」を楽しんでいる訳じゃない。
世の中の保健衛生のためだということでしょう。

だから真正面から業は受けにくい。
ライオンや虎は悪意なく毎日ほかの生き物を殺して食べますがカモシカや野牛の呪いや祟りを受けているのなんてのは見たことない。

ところがスポーツ・ハンティングなんてのは、ズドンと打ったのが当たる感覚を楽しんでいる。
実は動物を打つと同時に自分にも鉄砲玉打ち込んで喜んでいるんですな。
考えればおよそバカな奴らだ。
私は猟銃は全て公務員が持つ以外は廃止すべきと思う。
害獣駆除は公的な機関がすべきことです。
民間にそんな危険なものがあっていいわけない。
犯罪の温床。
あるスポーツ・ハンティングの会で「おたくは動物の供養していると聞いたので・・狩猟動物の供養してほしい」というから「一番の供養は面白半分に命あるものを殺さないことです。何が供養だ?笑わすのもいいかげんにしてもらいたいな。」といってやった。
鳥獣だって無益の殺生を楽しむ奴らの供養など片腹痛いと思う筈。
痛みの感覚、それが阿頼耶識に蓄積されればどうなる?
動物自体は弱いものです。
実際は恨んでもなかなか祟れない。でもこういう動物の祟りというのは本当は自分が自分をゆっくり殺しているんですね。
昔、子供時代ミミズのオシッコかけたらおちんちん腫れるという迷信があった。
でも腫れるんですね。実際腫れたという人は多い。
そういう前提がはいっていればよけいそうなりやすい。

対象が動物だけでなく意地悪な人や残酷を楽しむ人は実は自分を苦しめているんです。よく言うように潜在意識には自他の区別がない。

でも自他の区別がないという言い方は実は本当ではないね。
自他の区別がないのではないでしょう。
我々には他人のことも自分のこととして引き比べて疑似体験する構造があるというのが正しい。

だから、本当の意味で幸せになりたいなら人にも生き物にも優しく慈愛を持ってこそですね。
私はそう思います。