金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

平等の落とし穴

平等は大事。不平等は駄目というのが世間の常識。
人は平等が好き。
自分だけ違うのは理解できない。
動物学的には集団的な生き物なので、これも一種の習性だと思うのです。いわゆる体育会のしごきのノリやね。
だから、自分がひどい目に遭ってきたと思う人は人にもつらく当たります。
虐待されてきた思う人は人や動物を虐待する。
人に拒否されてきたと思う人は激しく人を拒否します。
例えば、こっぴどく振られた人はどこかで人をこっぴどくふらないとおさまらない。
みじめさがおさまらない。
こっぴどく振るために恋愛してる人もいる。たぶん無自覚だけどね。
なぜならそうでないと不平等だから。
世の中そういうものではないと「なんで私だけ?」という不条理に悩むからです。
人間此の不条理というのがとても嫌いなんですね。
知的動物ならではの弱点でもあります。
反面、社会の均等化もこの心あって成り立って入るのかも。
ほかの動物はそんなのどうでもいい。
だからたくましい。
こんな番組があった。
穴で子供を一生懸命育ててきたジャッカル(アフリカの狐類)のお母さん
ライオンが来てすべて子供は食べられてしまう。
目の前で。
勿論戦っても到底勝ち目がないので遠目でその光景を見ているのみ。
全てが終わって、鳴きもせず、ただ、佇む母親の姿。
無表情なるがゆえに「万感の悲しみ」がそこにあるに違いない…とすら思ってしまうその姿。
でも、このジャッカルは「なんでうちだけこんな目に!?」とか「よその子供もライオンに食われてしまえばいいんだ!」とは思わないでしょう。
また、どこかで一からやり直すため、たんたんと風わたる草原を彼女は去っていく。

人間はそうじゃないよね。
子供が「保育園おちた。日本死ね。」とまで言った女性がいたそうだけど・・・。
母ジャッカルよ。一個の獣にも及ばぬお粗末なその心や、憐れむべし。

まあ、いかにも人間らしいお粗末さですが、勿論、この人だけではなく、程度の問題で私の中にもジャッカルに嗤われるべきそうしたお粗末さはあります。
つまり彼女が腹が立ったのは本当は保育園に落ちたことそのもので無く、そこに不平等を感じたからだと思う。


泥棒や横領が平気な人は実はいつも盗まれているという気持ちがある。世の中に盗みは普通あるものという認識。
人殺しもそう。人殺しは特別なことじゃないと思いたい。
不倫もそう。そんなの普通だと思うからやるわけです。
どんな悪人でもそれがとんでもないことだと思えばやらない。
これ平等に根差す観念から来ています。
でもこっちに流れていけば駄目ですね。
大事なのは不平等の観念。人は人。我は我の観念。
盗みが当たり前でもしない観念。火事場泥棒は海外で多いですよね。
みんなですれば怖くない。これ平等の観念です。
「誰でもすること」誰でもするから自分もする。
そこに道はない。
例えば、人は約束を守らないけど自分は守るというのが菩薩の心。
世間は義理に思わなくても自分は義理に思うという義の心。
菩薩はそうした個々の考えが世間を作っていく事を知っている。
だからマイナスに対するマイナスは排除する。
逆にどこまでも個の心だと,自分一個のバランスをとることだけに終始する。マイナスにはマイナスでどこまでもバランスを捕ろうとする。これが小人のパターン。
世の中に迎合し同化する人々、かたやいつも、創造していく。世の中にはいつもその二種類の人たちしかいない。これは生き様の問題、金や権力は関係なし。

道とは世間様がなにをしていても自分の道を外さないこと。
自分は自分の道を行くこと。ここで人間の値打が違ってくる。
志の有無の問題。
まあ、他人は自分を測るスケールだし、他山の石ということもあるけどね。
平等なのは無条件に大切ではない。衆愚という言葉さえある。
良き平等のみが大事なのです。
道を求める人は不平等のリベンジはしては駄目。
それって実は終わりなきかたき討ちなのです。仇でない人に意趣返しするようなもの。
止めなければそのうちパーソナリティ化してあなたを蝕むでしょう。

人様に対しては平等にすべきでしょうが、自分に対してはそれを期待するのはやめましょう。
強く生きるために。
強く道を行くために。

今日何があっても風わたる草原を行きましょう。
母ジャッカルのように。