金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

善って何?

善とは何か?神様の決めたことを守る?
仏教的にはそうじゃないですね。
善とは他者への思いやりと利他行の心。
まあいまふうにいや愛です。
それ以外ない。
そもそも、いつも言うように人間は群生動物の一種。
高度の群生動物である野牛や猿には仲間を助ける行為がある。
なぜなら彼らは一匹では生きられない。だから利他即自利なんですね。
人間だってそうです。一人じゃ生きられない。
だから利他はそのまま自利です。
「そんなのは本当の善じゃない。無償の愛や自己犠牲こそ善なのだ。」という人もあるけど…そりゃ嘘だね。
勿論、当面なにも利益が見えなくても世のため人の為というのはあるものですよね。
でもそこに自分になにかの利益があってはいけないと思うのはばかげている。
何で駄目なのでしょう?
誤解を恐れずに言えば愛の奥には必ず自己愛がある。
利己愛ではないですよ。必ず自分へのギフトがあるということ。
人に良くすることは自分に花束を贈ること。
善とか愛は自分と他人とのシーソーゲームではない。
天秤でいえば左右ピタッと「釣り合うこと」「真釣りあわすこと」。
神道ではこれを「真釣り」といった。
つまり「祭り」とはそれ。
無償の行為でそれで神様が喜ぶというなら、それだってそこには自分が神様を喜ばしているというギフトがあるよね。それだって自利に違いないのです。
勿論すぐに見返りはなくてもそれはやがては自分たちの集団を益して自分や自分の孫子に返ることという前提です。
だから、なにも見返りがないわけじゃない。
必ずギフトはある。
もし、本当にそこになにもないならそんなことはしなくてもいいと思うんですね
この話をしたら、「あなたは少なくとも宗教家のくせに見返りのないことはしないのか」とあるクリスチャンの方に聞かれたけど…。未来永劫にわたって一切良いことがなにもなければあえてはしませんね。
それはハッキリ言います。
しません。
でも…そのカルマはやがて私や私たちに良いことになると知っているから、実際には我々は他者を思いやるし、なにかしらするわけであります。
それはおもての意識はどうあれ私たちの潜在意識が知っている。
だから同胞を助けたい。無償でも助けたい。そういう気になるのは当然なのです。
しかし、それは実は生き物として私たち自身が生き残るための生命のプログラミングなのだと思うのですね。
すぐ後か何万年後か何回転生した後かはいつかは知らないけど…。
つまり今日した利他の行為は必ずこの世界を益する循環になると思うからこそ。潜在意識が知っているからこそ励むのです。
だから妄念の凡夫だろうが煩悩熾盛の三毒の奴だろうが利他の心は心の中に必ずある。つまり一体感です。私だの相手だの引き比べることじゃない。
伝教大師は「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」といった。これ自己犠牲的に聞こえるけど、ほんとはそうじゃないと思います。
「己を捨てて」じゃない。己を忘れて・・・自分だの他人だのという区別を忘れて…ではないかと思うのです。

実は人間はこの「自分たちは仲間だ」というの概念の枠をどんどん広げることができるのが素晴らしいんですね。
だからドブに落ちた猫を助けるのだって仲間意識。生きている仲間です。自己が拡大する。
昔ははじまりは、自分と家族のみ、それが俺が一族、おらが村だけ、それが一国となり全国になり、日本を超えて世界に。民族を超えて人類にとなる。それはそれだけ生きている背景を我々が拡大して来たという証拠でもあります。
今や、それ人間ばかりか、ほかの動植物にも及んできている。
エコロジーですよね。
善は他者がなければ行えない。
たとえば誰もいない雪だけのヒマラヤのてっぺんで瞑想して何十年いても善でも悪でもない。
同じように宇宙のかなたで瞑想にふける神様なんていてもいなくても同じ。別に何のありがたみもないです。
それは無記というものです。
仏教用語で善でもなく悪でもないことです。
善とは愛であり、愛するのに自分も他人もありません。