金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

幸せの月

最近朝起きると布団の上で「月輪観」をしています。
お月様を思う密教瞑想。
密教の観想ではまずお月さまをイメージします。その上に梵字が現れて、その梵字は次に本尊の御働きを現す事物に変じて、それからさらに御本尊に変化する。
これは密教の普通の行法の中ではあんまり時間かけないですけど、密教瞑想法というのはいわばこれをじっくりやるわけです。
その初歩の初歩が月輪観。
最初のお月さまのところを徹底してやるんですね。


輪観や阿字観は興味があって昔少しだけやったけど、その時は飯縄山で見た煌煌とした銀のお盆みたいな月を思ってこの観法やってたら気が頭に上ってよろしくない。頭痛するか、もっとすすむと上気して精神的にもおかしくなる。
ああいう銀のお盆のようなひかり輝く月は駄目なんですね。いわゆる「軽霧の中にあるがごとし」という感じがいい。ぼんやりした奴です。
それが証拠に昔の月輪観や阿字観の軸ってなんか全体に薄暗い。
真言宗のN大徳から教わった時は水晶のような立体に思えと言われた。どちらにしても光り輝くというのはない。スピ系の人は好きですね。
光り輝くの。
いいんですけどね、それはエクスタシーであって覚醒とはちょっと違う線のような気がします。


で、この月輪は本具の「菩提心」ということになっています。
菩提心って何?」ってよく聞かれます。
辞書引くと「悟りを求める心」と書いてある。
そうしたら「そもそも悟りが何だけわかんないから、そんなこと言っても求めようがない。」という人がいた。
こういう突拍子もない質問は良く信者や一般の方々から出る。
本人はごく普通の感覚で訊いている。
そんな時は、エ~そんなこと…何と答えよう!とは思わず、それを自分自身の疑問にしてみるんです。
私の場合は。

「何と答えよう?」というこの感覚。
実は自分がわかっていないからこそ出てくる。
分かっていれば、そうではなく「どう伝えよう…」でしょう。
もっとも駄目な奴は「そんな変なこと聞くな!」と怒って封じる。
こういう人は指導する資格なし。

そう、たしかにそうなんですね。
一段高いところから「「悟りを求めよ」なんて言っても、実が自分だって何だかわかっていないんだね…というのがよくわかる。
だからいつも生徒は良き先生でもあるんです。


私思うにこの悟り自体がよくわからないというイメージが「軽霧の中にあるがごとし」という感じでいいのかも・・・。ふざけているんじゃなく本当にそう思います。
御多分に漏れず私も本当はわかっていない一人です。


煌煌とした月は未だ悟らぬ身には嘘っぽい。まぶしくていけない。
そこで何だかわからないけどぼんやり見えるのがちょうどいい。
そこで「菩提心」っていうのは私は皆さんに「幸せを求める心」といっています。それもただの幸福ではなく「永遠の幸福を求める心」です。
仏教で最高の幸せは「悟り」ですよね。

昔、間の不自由な仏弟子阿那律尊者が、衣の修繕で糸を針に通そうとして苦慮していた。
無理ですよね。この人はお釈迦様に居眠りを叱られて大いに恥じ、目を閉じて眠らぬ修行をしてついに失明した方です。
「誰か福徳を求めるものは我がために糸を針に通しておくれ。」
そうしたら彼の手からスッと針と糸をとって誰かが通してくれました。
その誰かはお釈迦様。
阿那律尊者は驚いて「あ、お釈迦様?それは畏れ多いです。」というと「阿那律よ。私も福徳を求めているのだよ。拒んでくれるな。」とさとされたそうです。
そう、お釈迦様は福徳を求めておられた。
その究極の福徳が悟り。
大乗仏教は悟りは最終目的ではない、つまりそれで上がりじゃない。手段の過程です。
悟ったらそれで衆生救済にまでいかないといけない。
そっちが目的。要するに誤解を恐れずに言うなら助かればいいんです。究極幸せになれば。
だから極楽往生なんて裏技もありなんですね。此れ大乗仏教ならでは。

悟り自体は世福じゃないけどね。
でも究極的には幸福に世福もくそもないと思う。幸福は幸福。
なぜなら幸福はモノじゃなく心の働きですから。
お金とか車とか地位とか良き配偶者とか手に入れればおしまいの事例じゃなく…ただぼんやりとした永遠の幸福の概念が月輪。
「幸せの月」。


私はそこから始めていいと思うのです。
 そして、私もそこから始めています。