金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

特殊性と困難が命

アフリカ東部ではアルビノの黒人の体は薬効があるというのでねらわれるそうです。
この間もアルビノの17歳の青年が殺され、脳を引きずり出された。
そういう専門の請負行者もいるとの事。
アルビノハンターというそうです。
何とも恐ろしくもすさまじい。
野蛮極まる酷い話です。
背景にはアフリカの迷信的な信仰がある。
智証大師様は唐の国に行ったときあなたの「とんがり頭」は霊骸といって狙われますから注意しなさいと言われたと聞きます。
八世紀の中国がそのままアフリカに残っているような感じ。
迷信の土壌では時として迷信も力を発揮する。だから始末が悪い。
そういうフィールドなんだね。
エイズが治る木の葉もあって現地人は呑むと治るという。それ取りに行く人もいるらしい。

呪術は特殊性と困難で成り立っている。
日本や中国で紙になんだかわかんない霊符かくのもそうですね。
祭文もなんだかわかんない言葉が入る。
そうした非日常が呪術を形成している。
此れをより強化するのに困難というのを加味するわけです。
丑の刻参りの呪詛なんてそうですね。
実際やるのはかなり大変だと思います。
だけどお手軽になるほど日常性が高いので潜在意識は動かない。
お手軽呪術はあんまりきかないんですね。
お守り買うのもわざわざ行って買うからありがたいんです。
オカルト雑誌の付録のお守りとはやはり違う。

世の中は何かとスピードと簡便性が大事にされますね。
でも呪術のミソは真逆なんです。
密教の秘法伝授というのもそう。なかなか授けないから授かった時大きく効くんだね。
「授けて、授けて!」とうるさいから二つ返事でさっさと授けておけなんてのは授かっても効かない。
よほど授かる側に強固な思い入れがない以上ね。

だから師匠は真の弟子にはなかなか法を授けない。
それが親切です。
よその客僧には授けても弟子にゃ授けないんだね。
横目で「いいなあ。よその人には授けるのに私には・・・。」「なんで授けてくれないんだろう・・・」というのが実は大事な過程です。
もっともそれで諦めたり、腹立てたりしては台無しですが。
私の師匠のもとでも差別だとか不平鳴らしたり、しびれ切らしてよそ行った人もいた。
まあ、でもそれも機根ということになるんですね。
どうしたって師匠は憎まれ役になるんです。
その有難みをいつまでも見抜けない弟子や去る者は本当の弟子じゃない。
いわば去ってしまっても惜しくもない弟子です。
恵果阿闍梨弘法大師に短期間にすべての法を授けた。それは本質的にはそういう修行の過程をすでにこの人はもう終わっていると見たからだと思うのです。

この間から信貴山で祈祷の伝授していますが、呪術は師匠からのそうした過程を得た「授かりもの」だから効くんですね。
そうでないものは効かないか効き目が違う。
だから「直接の伝授じゃないと法は利かないよ。」といわれた。
法華経でいうように難遭や稀有の思いがないといけない。
さんざ苦労してやっといただいたものだから効くのです。
つまり先に申し上げた「特殊性と困難」がそれでずっとキープされるんですね。
伝授というのはそういう仕組み。
だから授かり方次第ではサラサラと霊符書いてもすぐ効く。
かたや山ほど印可や伝授受けても何にも効かないという分かれ目が出てくる。
私の師匠の流儀は十一面観音供を千座やる。
まあ、これ聖天様の前行でもあるんですが。
聖天様やる人はさらに聖天供千座。
こういうのは、そんな難儀なことせんでもよそでさっさと授けてくれるとこもあるのに・…と思うんだね。
でもそれは違う。

それからあとは何でも利く。
つまり千座で困難性がキープされたわけ。
だから諸尊法も授かるたびにもう千座なんてすることはないんですね。
授かって即効くことも多い。
そういう過程をどこかに設けないと呪術は効きません。