金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

占卜で仏教的に生きるには。

人間個々の運命は決まっているという運命論の立場を仏教では退けます。
しかしながら宿命通という神通力があったお釈迦様ですから、そこは決まっていることも部分的にはあったんでしょうね。
そうでなきゃお釈迦様の神通力に宿命通なんて上がらない。
宿曜占いだってそういうことですよね。
今日は数秘術という占いを勉強していましたが、たまたま断易という「占卜」の話が出て先生に実例の結果を解析していただきました。
断易とか六壬とか、周易とかタロットいうのは占卜であって宿命を見るとかではなく個々の物事の展開を近未来的に見ていくのです。
だから占うたびに結果が違う方法論をとります。
「おみくじ」も占いとして分類するとその一種ですね。
やってみると何となくそんなところだろうな…と思うことが出てくる。
だから「…やっぱりね。」と思うことが多い。「そんなバカな!」とは思わないものです。むしろ苦笑が出ます。「そうだよな。」と。
潜在意識の投影と言えばそれまでですが、逆に言うなら潜在意識には予知能力があるのです。
占卜も使い方次第では心の視座を決めるには有益です。
たとえ悪い結果でも「 ハハハ そんな物だろう」と納得できますので。
いざとなってもショックはあまりないですね。
むしろ使い方では覚悟をもって生きられるのがいい。
もういじましい無駄な期待をしないで良いのが小気味いい。
だから何度も迷って占卜するのは意味ないです。
癌だと言われているのに「癌じゃないですよね?」といって方々病院巡りするようなもの。それじゃ治療方針がたたんわね。

同じことです。
あっちの占いこっちの占いと気に入る答えが出るまで回る人とか吉が出るまでおみくじ引く人。意味なし。
昔二人ずれで相性見に来た。結婚するという。
結婚するなら相性は見ないというのが私の立場。
だって仲悪くなりゃ占いの性にしますからね。
結婚すると決めたなら占いは見ないこと。
それでどうにもならなくなったら初めて見る。
若いころは若気の至りでなんでも見てました。それで以て堂々と「駄目ですね。大凶。」とか言ってました。
カップルの中では怒る奴もいたね。でも「見ろと言ったのはあんただろ。」
出ているままを言う。
勿論、慰めも言いましたよ。「そうはいっても、当たらないことだって結構あるからね。」くらいは。
でも結果は結果。
だからうちの方からうなだれて還ってくる人見るとそのあたりで「ああ、羽田さんの占い言ったんだわ。」とかいわれてたらしい。
「悪いことは言わないんでしょ?」って聞く奥さん。「いいますよ。でてりゃそのまま。」というので帰った人もいた。
まあ、私も二十歳代でしたからね。
そういう加減はがわからない。
師匠に「生き死にの占いはするものじゃない」と言われるまでは「この病気どうなるでしょう。」と聞かれると「このあたりが越せませんね」とかくらいは言っていた。
でも嘘や耳さわりのいいことだけ言っていちゃ占いになりませんね。
「あんた、みたいな若い人に見られるの?」ってオバハンもいた。
「占いは年の功と違いますから、若くて気に入らなきゃよそいってください。」ってナマイキ言ってましたね。
「お宅は5000円って高いでしょ。よそは3000円よ。まけてよ。」って人には「じゃあお安いところへどうぞ。ビタイチモンまけません。」
或いはいきなり電話で「当たるの?お宅」なんてのも来た。「当たりません!!全然。」と言って切る。ザマアミヤガレ。
「はした金なんかもらって揉み手でもするともうのか。それより言いたいこと言って生きるんだ。」ってな具合でした。こういう馬鹿に付ける薬はないね。
でも、いまでも基本的にはそういうバカです。
私の頑固は昔から。今の方が角が取れてやわらかいかも。

当時はろくにお金もないのにそういうことかまわずいっていた
うちは母が現金商売もしてたので何かというと「お客様だ。お客様だ。」というので、それが嫌でわざとそうしていた節もあります。
母からは「お前、そんな風で世の中を渡って行けると思うのかい。もっとお客様本位で行かないと・・・」とよく怒られた。
母には悪いけど何とか世の中渡っております。上手ではないけどね。
それにつけても若いというのはホントしょうがないね。
面白いけど。(笑)