金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

諸悪莫作 諸善奉行

聖天さんの信者さんなんかはどこでも熱心な人が多いのでよくお参りはするけど…今回は「真言やお経をたくさん唱えると、それだけで立派な人になれますか?」という質問
答えとしては「なれない」だと思います。
それが私の考え。
ハッキリ言えば写経も読経も真言念誦もそれだけじゃ修養でもなんでもないただの作業です。

「沙石集」という昔の本の中にこんなお話があります。
ある阿闍梨のもとに男に深い恨みのある女が訪ねてきました。
「何としても恨みを返したいのです。調伏の陀羅尼を教えてください。」
「それはいけないことだ。」といくら言葉を尽くしてさとしても女は頑として聞きません。
致し方なく、阿闍梨は「息災真言」を調伏陀羅尼と偽って教えました。
さて一年ほどののち、またその女が訪ねてきました。
「さては調伏できなかったのでまた何か教えろというのかな?」と案じていると
「和尚様。ありがとうございました!教えて頂いた真言の威力で晴れて怨敵を討ち果たしました。」とお礼に来たのでした。
この話で分かるように人のどうしたいかという意識があってこその経文、陀羅尼なのです。
悪想念をこめて日々唱えれば息災の真言も調伏になるのです。
心のベクトルがどこに向いているかが大事なのです。
大砲も向きを誤って撃てば敵でなく味方にダメージなのと同じことです。
威力が大きければ大きいほどそうなる。
だから密教では強力な法はよほど人格者でないと教えてはいけないことになっているのだと思います。
例えば金剛夜叉法は東密台密を問わず秘法ですが、東密ではこれも40歳以上の柔和な人でないと伝授してはいけない。要するに世の中に熟達してかつ柔和でないと駄目ということですね。
調伏なんてまずしそうにしない人に授ける。
そういう法は結構あります。
だから人間的に未熟な人、非器の人に法を伝授すれば子供に名刀を持たすようなものです。
煩悩の敵を斬らず、人を傷つける凶器となりかねない。なかには一国一人の法というのもある。
例えば聖天供なども前行のうちに色々な問題が出てくる。そこをクリアして初めて伝授になる。法は非器にして授かればかえって自他ともに滅ぶ形になることもあります。
実に恐ろしいことです。
密教の怖さはそこにある。
それはここまでやってきて実感しております。
私自身、一応伝授されて知ってはいるけど我が身を振り返れば行うことをためらう法は多々ある。
同じように勿論ひとに授けない法もある。
自分の器が見合うかどうか懸念するのです。
「私のようなものがやっていいのか?」という怖れがある。

だからやりさえすればよくなるというのじゃないんですね。
これは密教じゃなくても同じ。
お題目毎日1000遍唱えてもロクデナシもいれば、般若心経1000巻唱えても自分のこと以外考えられない愚かな人間はいるものです。
むしろ、そういう宗教行で何でも解決するのだと誤解して方向性、志を誤ればかえって害にすらなる。
人間の修養とそういう行法は別なものです。
例え法華経10万部よんでもそこは変わらない。福分にはなるだろうけど
だからそこに人としても修養、六波羅蜜を欠いてはいけないのですね。
若いころ、お参り先のある茶店のお婆さんが言われたひとこと
「聖天さんを御信心ですか?信心は大事だわ。人間信心してたら悪いことなんてできないよね。神仏がいつも見てると思うから・・・。」
そのままに「ああ、これって諸悪莫作、諸善奉行の根幹だなあ。」と思いました。
その時、同時に自分の「信心」のあり方を振り返り見て恥じました。
「私はこの御婆さんの心に遠く及ばない。」と・・・

楽天と烏巣禅師の故事を出すまでもなく。此れこそどんな名僧知識の説法よりも千金の重さのある言葉ではないでしょうか。
子供でも知っているが行うことは老境に至っても満足にできないといいます。
まさにそれが諸悪莫作、諸善奉行というものですね。

勘違いしやすいけどこの善というのは、どっちが正しくどっちが悪いかというような「正義」とは違うんですね。そこは大事です。
どちらが正しいかじゃない「比較なき善」です。人間は正義感が強いがために皮肉にも悪を犯してしまうことだってありますからね。