金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

能力と器は別物


世間でよくあることですが、極めて能力的な人の中にはともすると自分の上に立つ人を自分より能力的に劣っているとみて侮ったり、さらにはこれを退けて取って代わろうとする者もいますね。
でも器と能力とは別物です。ひとつではありません。

そんなバカな?と思いますか。
その最大の違いは能力は自分が磨くものですが、器は自分の努力だけではできないというところにあると思うのです。
例えば三国志演義諸葛亮公明は天才軍師ですが、どうして戦が上手でなかった主君の劉備玄徳に背きとってかわらないのでしょう。
戦術の上では孔明が抜群にすぐれていますが決して劉備を押しのけては出ません。
そこには孔明の人の「器」というものに対する理解があるからです。
凡そ軍師というものは古来この「器」の理解がなければならないのです。
それが無ければ、いくら作戦上手でも、結局は思い上がった馬鹿者ということになります。
なぜならそこには自分の器というものに対する理解が欠如しているからです。
主君に大事なのはまず器量です。必ずしも能力ではない。現代におけるリーダーも同じ。
リーダーの条件は○○が上手だ等ではなく、まず人が認め付いてくるということです。
そこを理解しないナンバーツーは能力を盾にとって、自分がリーダー代わろうとしても人がついてこないし、そこがわからないリーダーは自分の立ち位置がわからず混迷します。
逆に軍師や参謀つまり戦略やマネージメントの担当者は能力的でなければ器だけでは仕事になりません。

「人の器」とは、いうなれば社会というものが作る「空間」です。
そもそも「器」は厳密にはモノではなく、ものを容れる空間です。それは器を構成している材質によって囲まれてできている空間なのです。
つまり社会の共通理解によってできているものであり、その人ひとりが作ったりどうにかできるものではないのです。

それが「ひととなり」といわれている「なり」の部分でしょう、
それはその人の能力ではなく、その人を認める人たちや社会によってできているのです。
認める要素には「能力」というのもその一つでしょうがそれだけではないのです。
その人の来歴や人格というものが大きく反映されます。それらは自分で自由にあれこれすることのできるものではなく人が認めるか否かなのです。

能力ということとこの「器」ということを取り違えるといかに才覚があっても明智光秀石田三成ような末路となるのではないでしょうか。