金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ある医療関係の方の質問に答えて

ある医療関係の方の質問
「今年は臓器移植法制定20年だそうです。 先生のお考えで構いませんので、仏教的に臓器移植の是非をご教示頂けませんでしょうか? 医学的に脳死は人の死ですが、私は呼吸も心臓も動いている状態は死と認めるには抵抗があります。 また、各臓器には、霊性?仏性?が宿っている気がしますので、臓器提供してしまっては、成仏できないのでは?という気がします。 先生はいかがお考えでしょうか? 今すぐお答えが欲しいということではありませんが、ブログででもお教えていただければ幸いです。 どうぞよろしくお願いいたします。」
 
以下は羽田の考えです。

何をもって「人の死」とするか?脳死の人も延命治療すべきなのかについては大変重い問題ですが、私は師匠から、「それは人としては死なのだと思う」という意見をかって聞いております。
私自身も安楽死に反対しませんし、むしろ死にきれない方のために早めの祈祷(安楽死祈祷)を頼まれることも多いのです。
勿論早めの祈祷は殺すための御祈祷ではないので寿命があれば亡くならず快方に向かいます。

人間らしい脳の活動はなくなっても、呼吸しておれば生命体であることは事実でしょうが、それは最早私たちの知る「人」ではないと思います。
勿論そうなったからといって「延命治療」はしてはならないとは思いませんし、人の姿をして寝ているものを、「最早これは人ではない」などとは軽々に思えないでしょうが、それゆえに本質的な問題はご本人よりも家族や周囲の心の問題だと思います。
でも、少なくとも私がそうなった場合は「死」という認識でいいと思っております。なんとか活かしておいてほしいとは毛頭思いません。
実際、私の父は最後の最後はそういう状態でしたが延命治療をせずにそのまま送りました。
そういった人からの臓器移植は私はできるなら推奨したいと思います。此れも生前の意思が大事で強制できませんけど。
医療とは「人」のためにあるので肉体そのものの為にあるわけではないと思います。
人が人であるかぎりにおいては医療を施すことが必要でしょう。
しかし、海の向こうでは貧しさゆえに未来があるはずの赤ちゃんや子供がその人としての医療を充分に、あるいは全く受けられず死んでいっています。
地球の資源には限りがあるのです。
そういう状況を知りながら、先進国に生まれた、豊かな国に生まれたというそれだけで、もうただ寝ていて意識もない存在がいつまででも薬品や医療や医師を独占していてはならないと思います。
それは貪りというものではないでしょうか?
仏性は生命に宿るもので肉体に宿るわけではありません。
仏教的に言えば肉体は輪廻する生命の依り代ですが生命そのものではないでしょう。
もし肉体に宿るものなら火葬すれば仏性も破損するでしょうが、そういうものではないと思います。
 私の見解は以上です。この見解が正しいかどうか私は知りません。
ただそのように考えるべきではないのだろうか?と私自身は思っております。
それだけでございます。