最期に見てみるとヤリッパナシや置きっぱなしが多いですね。
いつも言うように密教の行法そのものに依る修行と人間修行は別なものです。
私のころは誰かがやりっぱなしでも呼ばれてよく怒られた。
たとえば「あれ、どこやった?」と師匠に聞かれて「知りませんよ。私はそれかたずけてないので。」なんてのはもう下の下、最低の答えでした。「○○ですか?即、探します」しかない。そうやって自分を鍛える。師匠はそのためにいるんだよね。でもそれが判ない人間は不満たらたらになる。「私じゃないのに!!」って思う。
今回は花籠も散華も出したんまんまです。おそらく誰に聞こうが「私・・・知りません。」というだろうね。まあ、きたる来年、一人も密教行法に進めていい人間は残念ながらいないようです。
終わるとなるとサッサとかたずけて頭の中は帰ることだけなんでしょうけど。それじゃ修行になっていない。
たやすく法は伝えない。そういうことは同じ支所内の指導者と話しても最近よくそう思いますね。
私は密教やりたくてしょうがない人間だったのでなるべく人にも伝えてあげたい。ずっとそう思っていました。
でもそれは良くないね。改めないと。
自分のやれといわれたところだけやる。それは作業としては全くオーケーです。
でも修行としてはそれじゃダメなわけ。他所も、全体もこれでいいのかを見て帰るくらいの心でないとね。
それでこそ自分以外のところも最後に気を配れるようになるわけです。全体が見える人間になる。
見えないものが見えてくる。
そういう人は修行していけば良く間に合うからいきなり住職がかわりしてと言っても全てできます。「お前やってみろ」といわれる。
逆に何年立ってもこの人は無理という人間もいる。
いつまでたっても目の前のことしかできない。後は知らない。師匠がたとえ部分的でも安心して言い換えれば油断して任せられて初めて一人前です。
此れがないと何年やろうがただの作業です。
いずれは管理職になりたいとか、独立して会社を経営したいと思う人は平社員でも全体を見ているんです。
平のままの人は目の前の仕事しか見ない。
今の仕事の仕方は兵士がお城の南門と北門を守備していて、敵が攻め寄せ南門が破られました。
「でもそんなの知りませんよ。私、北門の係だもの。」というようなもの。
長年やっていてもそういう人間はいる。
全体感がない。何年やろうが俯瞰できない。
こういう人物は宗教者になるのは無理です。宗教者だけでなく人の指導者つまりリーダーなんてのはできないね。
この考え方では何年間も火の出るような行しても人間が幼稚で未熟ですからダメ。
言い換えれば自分のことしか見えない人間です。
はずかしいね。まあ、それが人の器というもの。
こういう人はたまに口を開けば自分の要求しか言わないのでよくわかります。
あんた、また、自分のお話?って感じ。
多分会社でもそういう感覚ないんでしょうね。会社でも俯瞰ができないと上には行けないですよね。
でもこの全体感がないと見えてきません。何も。
愚直というのは良い意味でいうらしいけど悪い意味で「愚直」。
愚直も結構ですが指導者には成れません。指導者に成れないのは行者に離れても宗教者にはなれないということ。
リーダーはリーダーになってからはじめて、リーダーの目を持つわけじゃない。リーダーの目を持った奴だけがリーダーになれるんです。
まあ、そうでない人は私に言わせればただの趣味やね。どんなに行しようと人の面倒は無理。
そういう人でも火の出るような修行するのは、はたから見れば凄いけど…趣味で沢登りするようなものでしかない。別に偉くはない。
人のお役には立ちませんから。
あとは自己満足の増上慢になるだけです。
そういう人はそのまま密教修行しても行に人間が追い付きませんから。
かえってやらない方がいい結果になります。
でも、そういうエライ行者さんでもそういう人は結構いるみたいです。
確かにすごいけど、鷲が高い空飛んだり、マッコウクジラが深海潜れるのと一緒です。すごいね・・・だけ。
我が師匠は怒鳴ったりはあまりしませんでしたが、見ていて駄目なものは何年立っても駄目だと判断された。まず人間修行。密教の行法なんてそれができてりゃいつでもできる。
だからわが師はおなじ年数いても教えないやつには何も教えない。駄目な理由も聞かれない限り言わない。こちらからやかましく言ってもそういう人は不満に思うくらいが関の山だと言っていた
それで実際に去って行った人もいました。
「なんで?意地悪じゃないの。」というのはあまりに世間的なみかた。
そういう人はもう論外です。
悪口言われようが恨まれようが、弟子が去ろうがそこは絶対妥協しないのが師というものだと思います。
私も黙ってそれで行きます。