金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

謙虚さと卑下慢

謙虚と卑下慢というのは似て非なるものです。卑下慢は慢心の一種です。
本当の謙虚さはありません。
本当に謙虚な人というのは「駄目、駄目、わたしなんて・・・」とはあまりいいません。
「わたしでよろしいのでしょうか?」という感じ。断る時も「○○なので私ではできません」と理由や訳を言う感じ。
卑下慢の人は最低ラインまで引いているのであとは持ち上げてくれるだけという体制でいます。
そうでないなら「私なんて駄目」という存在丸ごと駄目だといういい方は出てこない。
 そうしておいて「そんなことありませんよ。」って言ってほしいんだね。
私なんて駄目ですと引いておいて持ち上げてほしい心理が卑下慢の心。
だから「そうか、駄目ですか。わかりました。」とあっさりでられたらガックリ来る。
それでいて他の人にお鉢が回ればケチつける。
そういう人が周りにいませんか?
そんな人をなだめたり、すかしたりするなんてばかばかしいですよね。
メンドー臭い。
 
私の場合は相手が「私なんて駄目なんで…」と言った時点で「ああ、そうなんですか。それなら仕方ないですね。」とあっさり流しています。だってやる気ないんでしょ。
易の中に「童蒙よりはじめる」という言葉があります。まず、わかんない人、知りたい人が聞こうという態度でないといくら教えても、ものは身につかないというんですね。
そう思います。
現に私は中学、高校、大学と英語やったけど身についていないものね。なぜならやる気が薄く受け身だけで勉強していたからでしょう。
勉強していたという言葉さえおこがましい。
お恥ずかしい話ですがそういうことですね。
英語に関しては「そんな物やんなくても生きていけらあ。」という子供ながら愚かな慢心があったんでしょうね。
それでいて外国語は不得意なんで…と言っている。まあ、不得手も本当ですがまずやる気がない。
今さら手遅れですが身についていればもっと楽しかったかもね。
人様のことではなくわが身の恥です。「童蒙よりはじめる」は万古不易の真理です。
逆にいかに謙虚であっても熱心に聞くことはできます。そういうものです。
むしろ、人は謙虚なればこそわからぬことを尋ねるのです。
ましてや終始受け身で「言ってくれなかったからわかりません。」「聞かれなかったんで言えません。」なんてのはもう論外です。
これは傲慢不遜というもの。
ある習い事の先生から聞いた話。なかなか上達しないので…
「○○さんはどこがわからないんですか?」と聞かれて「どこがって…私、バカなので判んないんです。」といった生徒さんがいたそうです。
こんなのどうしましょう?とりつく島がないですね。
自分がやりたい勉強でさえそんな風じゃどうなりますか。
私なんかは「ああ、そうですか。ご自分がそういうんじゃ無理ですね。もう、やめましょうか。」って言ってしまいそうです。