金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

魔道(惑う)の修行

旧約聖書ではモーゼが十戒を授かりにシナイの山に登り神に逢います。モーゼに神は自らをしていいます。「我はありて、ある者也」と。
神の言葉ですが人間において考えれば、これはデカルトの「われ思うゆえにわれあり」と同じことに思えます。絶対の存在としての「神」とは何か?は仏教的に考えれば我とは何かと同じことでないのかと思うのです。
この「我」の認識から「人生」は始まります。
逆に「我」の認識が明確でなければ「人生」などという概念は出てこないでしょう。
しがって「人生を考える」などという考えはそこに生まれてこない。
仏教では「無我」ということを説くのでこのデカルトの言葉といかにも対極にある考えのように思えますが、私はそう思いません。
「無我」は「我」の認識が前提になければ生まれない。
「迷い」の認識無くして「悟り」も生まれない。
例えば、野に咲く花は「無我」でありますが、それは我々の「無我」の投影であって「真の無我」とはいえない。
野に咲く花を見て無我を悟る人がなければ「無我」はそこにないし、悟りもないだろうと思います。
だから悟りを求めることは人生を考えること。我を考えることと同じですね。
闇雲に無我になろう、無念無想になろうなどというのはただの思い込みです。
我から逃げず、我を追求すれば、我の「底」が抜けて同じところに行くはずです。
それで、もし同じところに行かないなら「無我」ということは間違っていることになります。
だから迷うにしても大いに迷う。ただ迷うのでなく、積極的に意識してしっかりと迷う。クソの役にも立たないナマ悟りの振りなんかしていないで「私は迷っているぞ~!」と言ってガッチリ迷う。つまり迷いの認識です。
それはまた「魔道」(惑う)という名の仏道修行だと思います。(笑)
だって「魔界仏界同如理」ですから。