金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

霊的に強くなるには

私は霊障の話は嫌いだと思われていますが、日ごろ霊障の話は概して酷く言うのでそういわれるのも無理はないです。
ただ、厳密には霊障の話が嫌いというより、思い込みを押し付ける人が嫌いなだけです。
…でも悪く言うだけじゃ不親切なので今日は対処法を少し教えます。

むしろ、本当の霊障は本人が判っていないことの方が多い。
大事なことは霊を感じる人にだけあるわけではなく、霊が根本原因の災いですから、だれでもありうる。
見える、聞こえる、感じるだけなのはひろってしまっているだけで本当の原因かどうかはわからない。
見えない、聞こえない、感じないでも霊の影響はある。そこは別です。
むしろ霊由来の問題ではないのに自分で拾ってしまって解釈するのでなんでも霊障だと思うんですね。そういう方はいます。
死んだ人や精霊はどこにでもいますので、それをひろうなら皆霊障になる。
そこを区別したいんですが、はじめから自分の感覚だけできめつけてくるので困るんです。
私は霊的な感受性が強いだけというのは「霊能者」だと思いません。
そこを分別してこそ能力であり「霊能者」です。そうじゃないと「霊障者」です。
残念ですが、中にはそこが判らないままで霊能者の看板挙げているレヴェルの方もいますね。中にはよくない霊が盤踞している人もいます。
悪霊総本部みたいの。
或いは中途半端な霊能者が霊がたくさんついていますなんて言っておいて、どこかでとってもらいなさいと無責任に言い放つ。
私の師匠は「自分で何とかできないなら言うな」という主義でした。
霊能者に行くならとれる人、対処できる人、あるいは対処できる人を教えてくれる人でないと・・・です。もっとも全部やるというインチキもあるのでご注意ください。いわゆる霊感商法ですね。
のっけから「どんな霊問題も絶対に解決する」なんて言うのはまず嘘です。
「どんな病気も必ず治す」と言う医者と同じで変です。

本当に霊に敏感な人はいわゆる霊感体質ですので、ハッキリ言って治るとかじゃなく対処療法しかないというのが正しい。
あるいは本格的に修行して強くなる人もいますけど・・・そうとう時間かかります。
私の周りにはそういう人が多かったけど結果的にあまり幸せになりませんでした。
だから霊感があるから得度して修行した方がいいなんて全然思わないんです。
まして得度するなんて修行目的以外にあってはいけない。邪道です。
まず必要なのは普通の信仰です。
それが私の考え。
でも世間では霊障や霊感があるから得度、修行して取らないと駄目なんて思う人多い。
「私って霊感強いので得度しないと駄目って言われたんです。」って方いますけど…
信仰もないのに得度なんていらない。無駄なことです。いりません!
ましてや霊障で日常生活もガタガタなのに専門の行者になろうなど、病人がスポーツのプロ選手目指すようなものです。
まあ、体弱くてもスポーツ選手になる人もいないわけじゃないけど、あってもそんな確率です。少なくとも普通考えることじゃないね。

但し人間修行は絶対的に必須です。

大事なのは強くなること。そしてにぎやかで明るくなること。
つまり受動的な自分から能動的自分に切り替えることです。
受けるから出るに変える。
こだわりを捨てる。やなことサッサと忘れる。
サラサラ生きる。
これは実は「無我」の修行につながります。大体自意識過剰な人が典型的な霊障人間。脳天気な人には割合少ない。(精神の病にまでなっていれば別です)
もっとも真逆のタイプに動物霊がついていてやたら騒がしく、自信過剰な人もいます。威張り型。大言壮語、酷くなると誇大妄想型。
つまらない眷属霊はそういうタイプ、でもまあ、こういうのは正眷属ではなく、もう離れちゃったノラちゃんですから危険ですね。
極端なタイプだと教祖様になって子分作るのや奉られるのが大好き。此れもタイプは違うが自意識過剰型の一種です。
この手の人は自分は偉大な霊能者、不世出の天才なんだと思っているから幸か不幸か相談には来ません。
本当に動物霊がついて良くも悪くも人間離れしてくる。ときには驚くような力を見せる場合もある。昔から「狐憑き」はとんだりはねたり派手なもんです。
だから、具合が悪くなって体が重い、始終欝々としているのはこのタイプじゃないね。

動物型はまた別な対処がいりますが…。前述の受動型タイプを治す。それには日常全てが修行です。宗教的な行法でなくてもいいんです。
自分で率先して動く。
アクティブになる。ものをハッキリ言う。
声もひとまわりほど大きくする。声が大きいと雑霊は退散します。
音切りという奴です。
雑霊が錫杖や鈴などの鳴り物に弱いのもそのため。
笑いも音切り。よく笑う。お経なら声に出して読む。
歌って踊る。これは全部入っている。お神楽がそれです。
生活態度を変えれば変わります。というよりそれ以外ない。
般若心経を一万巻写経したってここが変わらないと変わりません。
そして字はでかく強く書く。字をでかく書くと霊的な領域は広がります。
ちまちました字や薄い字は駄目です。書いたものは霊が宿る。
だからお四国巡りの「納め札」だって全て書かされました。師匠から印刷なんて駄目だといわれた。まことの御札にならぬと言われた。
私たち一門は皆そうして巡礼しました。
師匠が四国の人なので徒歩の四国参りは我々は必修科目でした。

ひとつ宗教的な方法を言いますと、墨をすって紙に何度も信仰している神仏の名前を大きく鮮やかにくりかえし書く。これもいいです。そうやってよく書けたらお守りになる。折りたたんで持ち歩く。
良い墨には霊力がある。だから中国では墨や硯を珍重します。
それからメリハリをつけて動く。九字ってあるでしょ。あれメリハリです。
授かっていないのにするとお咎めがあるので「神」という字を空中に大書してください。本当は刀印ですが、これも伝授なので空手の手刀で払うように一画一画きちんと書く。最期の神という字の右側、申の字の竪一画は刀でバサッと斬るようにおろす。結界です。紙にかいてもいい。

ほかに自分でできる簡単な対処療法は「朝日」を拝むことと「霊地」にいくことです。霊地といたってそれこそどこでもいいんじゃないです。
霊感があるという人ならできるはず、自分の霊感で気持ちいいところを探してそこの土地の気をよく浴びに行くのがいい。
まほろば」をみつけてよくいくのがいいです。ご神気を浴びてください。
寺より神社の方がいい。

寺なら霊山の寺。そこは霊能者でなくても霊的アンテナがあるなら素人でも分かるはずです。
神社は寺と違いそこが神様の降臨した場所になっていることが多い。だから神域は気が強いんです。
神域に何度行っても残る霊は因縁あるのでここで寺の出番、供養ということになる。

神社には良い悪いではなく、自分にあうとか、あわないがあるから他人がいいと言っても自分にいいかどうかは別です。
そこだけ注意がいります。
たとえば私は習合系じゃないと逢わない。だから明治神宮とかは純粋にお参りだけでそれ以外はあまりいかないんです。