今回の旅で京都のさる仏教書林の老舗さんで准胝様のありがたいお話を聞きました。
その書林のお内儀の父君が准胝尊の行者だったそうで、常々「独部法」を伝授された。
それでお弟子さんが多かったそうで「准胝尊は七俱胝仏といい七十億の仏の母だから、仏子、つまり仏弟子を生む仏である」ということ。
お話では特に女性のお弟子さんには相応だとのことで、その方のお弟子は女性が多かったそうです。
修行者はぜひ拝みたい御仏。
さらにある真言宗の碩学のお話に胎蔵曼陀羅の遍智院は仏母院ともいい、准胝様や佛眼仏母も並んでいますが、中央にある「一切如来智印」という△印は実は女陰の図形でもあるというお話を伺いました。いうなれば、この遍智院から一切の仏が生まれる。
インドでは准胝仏母はルーツ的にはマハーデービィであるドゥルガー女神から派生したのではと識者はいいます。
それも図像などではにっこりとほほえんでアスラを殺しています。
あんな恐ろしい女神から慈母のような准胝様が派生したとはちょっと思えないけど、金剛名は「降伏金剛」だからそういう怖さはあるのかもしれません。
かぎりなく優しいけど強く、そして怖いのも母ならではです。
仏母様に接するにも、まさに母の慈愛にすがりながらも畏敬の念を持つことが大切でしょう。
だから「独部法」は法としては簡単で入りやすい。
本尊がお鏡で印と念誦のみでできている。
法自体は簡単ですから授かれれば誰でもできる。
だけどなかなか至りがたい法という。
つまり始めてからその厳しさがわかる法なのだということです。
天台方では准胝尊は観音ではなく仏母です。
だけどあまり拝まれない。
こういうありがたいみほとけですがそこが残念です。
ただし三井寺所蔵の「諸尊本誓集」にはよく名前が出てくるから寺門方ではよく拝んだのかも知れません。
この間、真言宗の I 師が特別に作成された准胝鏡のうちを分けていただいて、それをもとに修行者の皆さんに伝授をしました。
この鏡の作成も実は困難を極めたそうで、多くの鏡が完成せずに破損たそうです。完成したのは当初の数から考えてわずかだそうです。
その少数のうちから、また分けていただいてはじめてできたのが今回の独部法伝授。
I 師には感謝、感謝です。
まさにいつでもできることではない。千載一遇でした。
でも元来が法とはそのようなもの。
後でやりたいと思ってももうチャンスはない。
そんなことは多いのです。
私の師匠はいきなり授けるというタイプ。
「え、その日は無理なんですけど・・・」というと「あ、じゃあ縁がないね。」でおしまい。
次はいつ「チャンス」があるものやら・・・。永遠にもうないかも。
法とはそういうものです。
そういうチャンスを大切にすることが法を大事にする第一歩です。
初心の行者が「この前いかれなかったんで、あれ授けてください。」なんてことは口が裂けても言えません。それがこの世界のルール。
これができたのも全く I 師のお陰、そして仏母の御心です。
いつでもできることではない。
形の上ではそこまでです。
顕教のほうはまだ理趣分の読誦がありますが、あとは四度以降の伝授になります。