金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

ご利益ないのも慈悲のうち


天部信仰で人生誤りやすい人は、やはり貪瞋痴の戒めのない人。
これらの戒めのない人の過ちは観音様やお不動様の信仰より、その間違いは人生に大きくクローズアップされやすいように思う。

それで私の師はむさぼらない、腹を立てない、愚痴を言わない、素直で正直な心というのをことあるごとに我々にいってました。
簡単ですがこの中に一応最低限守りたいことはこの中に全部入っているということらしい。
まず一番いけないのは怒るというのがいけない。
罵声を張り上げ直後に厳罰を受けた例も目の当たりにありました。
次に貪る。欲に際限がなく。もっと欲しいもっと欲しいという人間も厳しい結果になりました。儲かると際限なく自己過信して傲慢になる人ですね。
こういう人間は最後には処分されます。
愚痴を言うのも同じです。結局、聖天信仰しながら不平を言うのは聖天様に不平を言うのと同じことになる。
こういうのは大体人生厳しいときは出ないんだね。
皆必死に聖天様!と思うから。そういううちは大丈夫。

よくなってきてあぐらかくと人間そういうのが出てくる。
横着になる。聖天様に甘えが出て嘗めてくる
それで聖天様から「ふざけんなよ!」とやられる。
かなりひどくやられますよ。
観音様やお不動様と違って、聖天様の場合は自己責任の世界。
望みは自由ですが結果は自分で考えないといけない。
ある意味非情だけど、私はそういうのは必要なんだと思います。
そういう学びをしていく世界なんだね。
たとえ無一文になったり、死んでしまったりしてもそれで学べよという世界ですね。
だから怖いですよ。
過ちが誤りで済まないレベルです。
聖天信仰もろ刃の刃という表現もあながち…だと思います。
だから結果的に「この人には天部信仰は、とくに聖天様は信仰させらないなあ・・・」という人はいる。
良い人でもあっても、全然悪い人じゃなくてもね。
してはまずいタイプはある。

まずは慎しみの薄い人ですね。
ものを軽くかんがえ多寡を踏むタイプ
あるいはフレンドリーなんだけど甘えやなれ合いで生きていくタイプ。
自分本位に考えて思い込みの激しい謙虚と無縁なタイプ。
こういう人にはやはり危険だなと思いますね。
いずれ必ずと言っていいほどえらいことになる。
こういう人はご利益が全くないほうがいいと思う。
なまじあればそういうところが助長して終には悲惨なことになりやすい。
だから一生懸命やってもご利益ないのも慈悲なんだと本当にそう思う。
長くやって来てそう思う・・。

結局結末から見れば罰せられるためにやってきたようなもんだね。
ま、学びといえば学びだけど過酷ですよ。

だから聖天様が魔王といわれるのもわかるし。権現としては魔王でいていいんだと思うんですね。
聖天様の行法のお唱えごとに「速やかに夜伽の障難を誘う」というのがある。夜伽というのは毘那夜伽という悪魔で聖天様はその親玉です。
この「誘う」というのが古来いろいろ伝承では言うんですけど間違いじゃなくてこれで「祓う」と読ませることになっております
つまり「折伏摂取の霊天」という聖天様には「順」にお助けくださる面と「逆」に罰する面がある。どりらも実は仏の働き。慈悲の働きです。
罰も実は聖天様が気分で怒るんじゃなく仏法から照らして非道を懲らしめるのですから広く言えば霊験です。前は文字通り毘那夜伽を払いますが、後のほうは誘うでいいというわけです。
貪瞋痴をほしいままにすればつまり毘那夜伽が集まってきて罰せられる。
聖天様はもうそれを放置しておかれる。
だから、そういう人はえらいことになる。
ま、だから聖天様のお導きは興教大師がいわれたような「機縁のいたり感涙抑えがたし」から地獄行きまでいろいろあるわけです。
聖天行者としてはなるべき地獄行きにしたくないわけですがそこはどうしてもそうなる人もいる。そこは行者としては避けるべきところですが、聖天様としてはそのお働きでもある。
それゆえ聖天様です。
なんか行者は弁護人で聖天さんは判事。そんな風にも思えます。