金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

総じて存知すべからず


昔、訪ねてきた若い人になにげなく、話の中で簡単な唯識の話をしたら(というより簡単な部分しか知らないので)、「でも、そういうのって客観的に証明できます?」といわれるので、即座に「できないね。」というと・・・「え、じゃあ、なんで信じているんですか?」ときた。

「あんた面白いね…客観的に証明できることなら信じる必要ないでしょ。」
「まあ、…じゃあ不確かなことを人に説いているんですか?」というので「そうです。」と言ったら大いに驚いて、「それっていいんですか?」と聞く。
「よくないの?」といったら「だって不確かなんでしょ!」という。

「そう、私にとっては不確かです。仏陀のように悟った人間ではないですしね。ただ先師先仏の所説なので受け入れている。それだけ。」
ますます疑念に思うご様子。
「ついでに言うと『ではなぜ、それを受け入れるのか』といえば私がそれを納得し、受容しているかです。証明されているからとか科学的だからじゃない。
納得と証明は別です。自分がそうだなあと思えば納得。
証明されなくてもいいんです。アンタとわたしはそこが違うね。
だからもとより同じリングの上にはいないわけ。
議論にゃならんわな。
「そんなの信じられない」といわれれば、「信じないでいいでしょう」というのが私の考えです。共通理解がなければおしまい。
宗教なんていってみれば全部それだと思うよ。
ザックリ言うと頭じゃなく、インスピレーションでアクセスする世界。
大前提で「唯識」も「中観」もそれを言っている人間自体は客観的には観察できない。
真の意味では客観的なんてありえないと大乗は言っているんだと私は思っています。
だから大乗の世界は認識論の世界であって、客体としての宇宙云々の理論があるわけじゃない。それが一足飛びに言えば「根本空」ということ。
仏教ではそういうの「無分別智」といって知恵なんだね。これが。
つまるとこ真理の追及とは我らの「共通理解」ということでしかない。
そこが限界。
それでいいんです。
人間の頭脳ですべてがわかるというのは一種の妄想だと思うからね。
要はあくまで人間という限界のあるなかでの理解であって唯一絶対の真理なんかじゃないんだね。そんなのはわからない。
実際は宗教はおしなべてそういう共通理解の世界だと思いますね。対するに上座部なんかは分析的に客観的に世界を見ますね。そこは大乗と違う。
だから宗教じゃないともいう人もいるようです。
でも大乗はやり方、スタンスが違うと思う。だから証明しろといっても何にも証明できません。
あなたはそれではいい加減だというけど本当に証明できる真理なんてあるの?
科学や医学だって学説は常に変わっていくんでしょう。
だから進歩がある。
でも進歩があるということは今までの前提が変わったりするからですよね。」

私、思うにつまるところは,親鸞聖人の言われたように「よき人の仰せをこうむりて信ずるほかに別の仔細なきなり。・・・総じて存知すべからず。」ということであると思います。
私の先師先徳の後を行こうと思うだけ。こういうのを「守護師迹」といいます。
こういうところ親鸞様は素晴らしいと思うのですね。
そこのところ、今の浄土真宗さんの教義ではどういう解釈だか知りませんが。