金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

勝負の祈り

格闘家の信者さんがいます。

毎週欠かさず月曜日に動物の世話に来てくれます。
試合のほうは別に祈願してくれともいわれませんが…今度試合があるという話で今朝、「勝負と祈願」の話題になりました。

思うにスポーツや格闘技の勝負のようなものはご祈祷するのもいささか変なものです。
勝負自体が自分の実力を証明するものなので、受験や裁判のような勝ち、負けに利害の伴うもの。極端な話、国際紛争みたいに、勝ち負け以上にむしろその後が大事なものはあるいは祈願が必要でしょうが、勝負それ自体が意味があるものは祈願するようなものでもないと思うんです。神頼みで勝っても意味ないでしょう。
まあ、スポーツでも野球やサッカーのような団体戦ならそこのチームワークのための祈願はそこいらはいいんじゃないかと思う。勝負そのものというよりその前提ですから。

戦争のようにはじまってしまたら、何が何でも、どんな手を使っても勝つという結果が大事なら祈願もいいでしょうがスポーツや格闘技はそういうもんじゃない。
 
格闘技の祈願はしてはいけないというのではなく、本尊となるべくアクセスすることこそ祈願です。
いわゆる神頼み、相手頼みはだめ。通用しません。
じゃあ信仰は無用なのかというとそうは思いません。
よりさらに深いレベルの信仰です。
神仏は向こうに置いておいて祈る対象ではなく、自らが神仏を取り込む。
ひとつになる。もっと言うなら内在の神仏を発揮することです。
向こう側において祈っても役になんか立ちません。
だから宮本武蔵なんかも神仏を尊んで、これを頼まずという。
むしろそういう気持ちで練習することこそ、格闘技やスポーツならそのままもっともよい祈願ですね。ほかに有効的な祈願なんてない。

私は歴史上の人物では上杉謙信公が好きですが、思うに上杉謙信はそういう人だったのだは・・・と思う。
上杉家につかえる家来はみな毘沙門堂で、忠誠の誓いをする習いだったというけど、出先で家来になるものは自分に誓いなさい。私が毘沙門天だからと謙信はいっている。護摩堂にこもっては、いつも感応道交を祈る。
多分なんとか勝たせてくださいというような祈りではなかったと思う。
そうでしょうね。「正義は我にあり、毘沙門天は即我なり」の心がなく、ただただ、「負けたら大変ですからなんとか勝たせてください!」では戦勝祈願の理由になりません。
不幸なことだけど合戦はお互い命のやり取りですから。
負けたくない勝ちたいだけならどちらでもいっしょでしょう。
それだけで終わるなら祈願に正当性がないですよね。