金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

常不軽菩薩の心と観音経の心


拙寺の信徒さまからこんな投稿を頂きました。

わたくしが小学2年のころですから昭和40年ころだったと思います ある休日、多摩川の土手道を左手に川をみおろしながら母親ときょうだいと歩いていました 釣り人が川に胸くらいまでつかりながら釣りをたのしんでいました ところがひとりの釣り人がおぼれだしたのです あとで母によると多摩川は砂利をすくってとっていたので川底がえぐれているところがあるとのこと こどもからみても このままではおぼれ死んでしまうようにおもいました ひとりのひとが死んでいこうとしているというのはこどもごころにも大変な衝撃でした
いまでいう外縛の合掌をして天を仰ぎみながら「マリアさま助けてください」とさけんでいました
そのときひとりの青年が土手を駆け下りていき、釣り人を救いだしました 全身水浸しになって土手をあがってきて土手道の屋台のおでん屋のおやじさんに「着替えてきます」といって、去っていきました 近所に住んでいて、おでん屋台の手伝いをしているようでした 「あいつはね、もう何人も助けているんですよ」「近所にすんでいるんで、いま着替えに行ったんですよ」とおやじさんがいっていました
あの青年は人間だったのかな なにかが化けていたりしてなんてことを、50年たってもときどき思います 

法華経に「常不軽菩薩」という方のお話が出てきます。すべての方の仏性を拝んだ。中には気色悪がって石や瓦をぶつけるけど遠くからまた拝んだという。
常に軽んじないから常不軽菩薩というのですね。
これは逆にその心を探れば、同じ法華経の観世音菩薩普門品(法華経)の心に行きつくと思います。
33変化身、あらゆるものに化身する観音様。
それは実は人を見る側の心にかかっている。
「あの人も観音様だな。・・・そして、この人も観音様だな。」と思えれば、それは常不軽菩薩の心です。
だからこそ手が合わさるのです。
そういうことは実は思い込もうとしてもできはしない。
道徳とは全然関係ない。
道徳は是々非々の世界だから相手によりけり、仏もいれば悪魔もいる。「あんな奴に仏性があるのか?」みたいなことになる。
それはそうです。それでいいんですね。道徳は。
だから、社会的に考えれば、会う人会う人だれしも観音様だなんて思うことが必要なんてのはおかしいバカげた話です。
そうではなく、これは信仰ならではの話です。
道徳は社会的な価値の話を抜きにできない。
対するにこれは、信仰が薫習されて(簡単に言うと積み重ねられて)起きてくる「境涯の世界」なんですね。
個人の心の中の話です、そこは道徳には存在しない世界。宗教ならでは。
一緒にできない部分です。
最近は宗教不在でなんか道徳の話とすり替わっているのが多いけど、本当はそこは違うんです。

この若い男性を人間ではない存在かな?と思うのもそうです。それは道徳ではわからない世界。
天使でもマリア様でも観音様でもその人の境涯によって見え方は様々。
この方は当時はキリスト教を信仰されていたようです。

逆に法華経の世界は行としてそういうものの見方を修行として実践していく。

修験道で言うなら権現ということ。つまり自然はすべてそのまま仏の現れ。
飯縄様はどうです。
人間ですらない。猛禽の面相にして人身。翼を背負い、蛇を巻き、狐に乗って大火炎の中に立つ。
西洋的に見ればどう見ても悪魔です。
不動明王以上にまがまがしい恐ろしい姿です。
とりわけ修験道は人はおろか、そうした自然のすさまじさの中にも仏を見ていく世界なんですね。