金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

嫌いな人はキライでいい


嫌いな人は誰にでもある。
私にもあります。当然です。色々な人が大嫌いです。
大、大、大っ嫌いです。
すべての人を好きじゃないとダメ?
そんな馬鹿な。
そんなこと言える人いるのかな?

でもよく考えるとキライなのは「こんなこと言われた」とか、「こんなことをされたとか」ということがあって嫌いなのでしょう。
…その体験がないなら嫌いも好きもなかったかもしれない。
しかも、その体験は必ずしもあなたへの敵意だけではない。
何故なら相手も理由なくあなたに敵意を持つ必要はないですから
色々なタイミングやなんかでたまたまなってそうなっただけと考えたらどうでしょう。
そういうのもあると思う。

もし、そういう体験の問題がそこになにもないなら過去の投影が起きているだけです。
お互いに。

だから嫌いであっても憎まなくていいように思う。今、現実に脅威にさらされているとか、攻撃されているとかでないならトラブルや衝突は必要ない。
嫌いであってもどこかで幸せにやってくれればいい。

たとえばあなたが蛇が嫌いでも見つけ出して殺す必要はない。
どこかで蛇は蛇でたのしくやっていればいい。

だからすべての人や生き物を祝福しましょう。
きれいごとをいいたいのではありません。
そうしてごらんなさいませ。
気持ちいいから。
楽だから。
准胝尊や観音様は水瓶を持っていますね。水の徳です。
十一面観音も准胝仏母もともに水瓶が「三昧耶形」
「三昧耶」とは仏様のはたらきの象徴です。それが水瓶です。
さらさら洗い流す。
こだわりを洗う。
憎しみを洗う。
そうでなければ心の浄化なんてできないですから。
観音は「施無畏者」といいます。
畏れなきを施す方
畏れを除く。
畏れは恐れと同じです。
恐れを除けば憎しみもなくなる。

誰かの行為をとっても憎む。
それって実は自分もそういう傾向があるということへの強い恐れかもしれないです。
政治家が権力乱用したり、不正に金銭を受け取るのを激しく憎む。そういう人は権力志向強いね。
実はリーダ―になりたい。
でも権利乱用したい心がどっかにあればそれを激しく憎む。そういう人をにくむことで自分を戒めているんですね。
社会派リーダーだの社会運動する人って案外権力乱用というかワンマンなタイプの人とか多いらしいんですね。
抑えつけ型人間。

嫌いな人がいたって、アイツがいっそ死んでしまえばいい、ひどい目に合えばいいと思う代わりに。関係なく幸せにやってくれればいいと思う方が心がずっと楽です。
憎しみを常に持っているのは大変しんどいですからね。
心に毒をためておくのと同じ。
そのうち毒が自分にも回る。
だから、自分のために祝福するんです。
嫌いなあの人のためではないです。
好きになんかならなくていい。
キライでいいんです。
キリスト様、おしゃか様だって悪人はきらいだったでしょうね。
どんな人もオーケー?そんな馬鹿な。
悪いことはNOだから教えがある。
もしそうなら戒律も教えも意味も必要もない。
でも慈悲は等しくかけられた。
キリストも嫌われ者の取税人や罪人とともに食事をし、釈尊も殺人鬼アングリマーラを教化した。

憎しみに支配されている人は悪人が改心したり、善人になるのを嫌います。
憎しみが取り残されてしまうからです。

大嫌いでいい。むしろはっきりキライと認識すれば憎むとか腹を立てるいう防衛ラインは下げていいんです。

友達がいつも借りたものをきちんと返さないので鬱憤がたまる。腹が立つ!
友達でいたいので鬱憤がたまるんですね。
そこはキライだと分離してしまえばいいんです。
「あんたのそういうところはキライです。」相手にそういわなくてもそう認識すればいい。
「ああ、私はあの人、実際はキライなんだね。」とわかる。
嫌いだけど憎んでないでしょ。そういいうときは。
だから嫌いというのは実は判別です。感情以上に。
もっと本当に嫌いな人でも、まあ、どっかで幸せにやっていけばいい。そういう心。可能です。


人をキライなのはいいんです。全然悪くない。
一種の学び「判断」ですから大事ですね。
好き嫌いがわかることは自分にとって大事なことです。
でも憎しみだけのけて措く。
これができると人と衝突しても感情と切り離しやすいので楽です。
私もそういう練習しています。
これ練習しないとできません。
頭の理解じゃなく感情の処理ですから。

衝突恐れずにものが言える。・・・私ももともと言いたいことも言えないような性格だったんでずいぶん悩みました (エ?ウソ言えだって)

楽が一番。心が軽いのが一番。