金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

過ぎたるは邪



「善き事にせよ、過ぎたると思うことをするものではない。心にとらわれなく普通にできることのみがまことに善き事だ。さにあらずんばそはなほきにては非ず。邪を秘めたるぞ。」

「人を喜ばせたい。」「サーヴィスして喜んでもらいたい。」と思う心は誰にもある。それ自体はとても良いことですね。
でもしばしば、それは自分でも度が過ぎていると思いながらするのであれば、そこには人に負荷をかけたい邪心があるということなのでしょうね。
「こんなにしてやっているのだ」
「だから自分を特別に思ってもらいたい」
「恩にきてもらいたい」
要するにそういうのはどこかに相手に「貸し」を作っておきたいんだね。
飯縄様はそういうのは「真の善事ではない。」といわれます。
「心に残らぬよう善事をいたせ。」という。
此れ課題なんです。

難しいね。私にもそういう邪心は沢山ある。気を付けないといけないです。
あるからこそこういうお言葉がある。
これ毎度言いますけど本当は「天狐通信」はわたしがいちばんいわれていることなんだと思います。
アホな私のためにお骨折りくださる。
有難いことです。
それを他人事だなどとおもって説教調で言えばきっと「馬鹿者めが!その方にいうておるのだ」といわれる。

だからブログに書いているのはある意味では忘備録であり、私はこれを直さないといけないというアファメーションなのです。
恥ずかしいことですね。考えれば欠点や恥を暴露しているようなものです。

「なほき」というのはまっすぐのこと。
直きと書きます。潔いということです。
飯縄様は武士道的な神様なので潔くないことを嫌います。
仏教的な言い方で言うなら「喜捨」ですね。喜んで捨てる。
いかに施しても心で捨ててないのは喜捨ではない。