金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

准胝尊と烏枢瑟摩明王

Message body

こんなメールがきました。

「拝啓
ご無沙汰致しております。
末弟の○○で御座います。
昨日お電話差し上げましたが、お忙しそうでしたので
失礼ながらメールにてご報告申し上げます。

独部法の十万遍を3月31日に満行致しました事をご報告致します。

伝授頂いた当初から原因不明の頭痛と憔悴感に苛まれておりましたが
これも因縁の洗出しと思い一万遍を超えた辺りから体も行そのものも楽に成りました。

経典に書かれている様な奇瑞は御座いませんでしたが、夢の中で
三面六臂の女神が炎の中で踊る姿を見ました・・・
見知って居る准胝様のお姿とは似ても似つかない方でしたが・・・
特に何を言われるでもなく姿を消されました。

ご存知の通り私は葬祭業に従事致しておりますので
ひょっとすると満行後は准胝様のデトックス作用で葬儀の依頼が入らなくなるのでは・・・と思って居りましたが

実際は真逆でした。

業界的には閑散期にも拘らず会社として記録的なご依頼を頂きました。
そんな訳で満行のご報告が遅くなって仕舞いました。

私は常々この仕事に対し「人の悲しみで食っている」という罪悪感を抱いており、仕事と割り切って就業して参りました。

ところが今回の行を終え記録的なご依頼を頂いた事により、准胝様から「大いに胸を張って勤しめ」と薫陶を頂いた気持ちに成り、感謝の気持ちに溢れ 何より心が解放されました。

ご教授頂き本当に本当に有難う御座いました。」

羽田 談
准胝様は不浄を嫌いません。
それはなぜなのか?
それはただ准胝様だからということではなく、本来は絶対的な不浄というものはないからなのでしょう。
不浄とは条件により成り立ちます。
例えば肥やしは不浄といえば不浄ですが、それを掛けた植物は繁茂し、野菜は大きく成長して我々の体を養います。
准胝様はそこの三昧に立っていらっしゃる。

人の死はうまれた初めから待っている。いわば切り離せないもの。
自然なものであればいかなる浄らかなものも不浄と全くは切り離せません。
死ねば不浄なわが体も生まれたときは清らかな赤ちゃんです。
葬式も今まで生きてきたからこそある。
だから初めから終わりまで浄なものも不浄なものもない。浄不浄は一如です。それを思えば同じものの裏表でしかない。

心の浄不浄であってもそこは実は同じだと思うのです。
清い心ときたない心が別々にあるわけではない。
同じ一人の人の心なのです。時に慈悲にあふれ、広く人を愛し、ときには人を激しく憎み、さげすんだり、あるいは開き直り捨て鉢になる。

イメージ 1

准胝さまは烏枢瑟摩明王を眷属とします。垂迹ともいいます。
ご存知の通り烏枢瑟摩様は不浄を好んで食らう仏様です。

私は個人的に大変好きな仏様です
…でも夢にでて来たような女尊ではないですね。
ひょっとすると炎の中に踊る三面六臂の女神は准胝仏母が烏枢瑟摩明王に化身しようとされているお姿かもしれませんね。

葬儀社のお仕事も烏枢瑟摩様と同じです。
人の死にたずさわるお仕事。
人によっては怖がったり、嫌がるのかもしれないけど。そこをだれかが勤めないといけません。
それを考えても大変意義のある尊いことです。
ますますの自信と誇りをもってお勤めくださいませ。 合掌