肉髻というものですね。あれは丸髷じゃないのです。頭頂隆起。
頭骨が盛り上がる。仏頂といって「悟り」のシンボルでもある。
だから仏様でもそこを神格化して「○○仏頂」というのがありますね。
学部にいたころ、禅学特講という授業が必修。さすが栴檀林といわれた学校でどこの学部だろうが必修でした。
そこで講師が禅の修行が進むと頭頂が出るという話をされた。
「なるほど、そういうのあるんだ?」と思って少し驚いた。
「私も少し出とります」といってそったおつむを撫でてましたが・・・
たしかにその人も頭の先とんがっている感じでした。
チベット仏教でもそういうのがあると聞きます。聞いた話だけど「ポア」なんかの成就でもそうなるという。
成就したかどうかはそれで見るらしい。
そうしたら昨日、「准胝独部法」を成満した信者さんが来て、頭の先がとんがってきたという。自分の彼女が頭のてっぺん触って「あ、出てる」といったとか。
脳になんか変化おきるのかね。どこか発達するとか修行の上でのそういう話は割合よく聞きます。
でも准胝法で聞いたのは初めてだし。身近な人に聞いたのは初めてです。
わずかな間の変化でちょっと驚きました。
このブログ見ているある在家の人から「准胝法の不思議な報告は毎日のようにきているようですが・・・そんなに特別な効験がある法なの?」と聞かれました。
思うに…本来密教ってそういうものなんだと思います。
それがものの本や見よう見まね子でやっているよな人は「験」がないのも当たり前。
そういうもんじゃない。どんな簡単なものでも伝授がないとダメ。
いわば仏さまの世界に登録制なんですね。
方法論以上にそこが大事です。
たとえば頭脳明晰な人間が勝手に正確にやるのと、凡僧が伝授は伝授だけど少々間違った形で伝授されたのではどっちが?というような変てこな質問されたことあるけど、もし験があるとするなら断然後者です。
そこが密教。
だから密教。
伝授があるかないかで密教か否かが本質的に問われる。
よく電話で「密教の印とか勝手にやっているんですが、ちょっとわからないことが…って」質問来ますけど、そんなのはよその人だし、強い注意も別にしないですけど、「やはり密教は伝授大事がなんですよ。」とは言っている。
勿論、そういう人にそういう形で聞かれてもなにひとつ教えられません。
それこそ古歌にいう「験なきこそ験なりけり」だわな。
ところで私ですが、昔から頭とんがっているんですね。自分じゃわからないけど人にそう言われた。子供のころから。
生来の成就者?修行もしないで?
いいえ、とんでもない。生まれつきそういう頭なだけでしょ。
むしろ頭変形してるので、私の場合はそれでアホなのかもしれませんが(笑)