金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

出家の価値観


昨日ある方からメールがあってその話の流れで「僧籍が一応あるんだけど返上しようかと思う。」というお話が出ました。
「でも、それが仏に背を向けるようなことや申し訳ない事にならないだろうか心配です・・・」と悩んでおられました。

でも、そもそも出家って何なのか?
「自分は仏教の勉強の延長線の上で、指導者に当たる方からのお勧めで、よく考えないまま出家したんです。」ということを言っていらした。
「ご自分がいらないならもう返していいのでは?」と私はいいましたが、そのなかでそもそも出家って何?という話に、

むろん昔の出家は正規には家も家族も措いて宗派に帰属し仏教の目的を目指すことでした。

今はお坊さんでも妻子も私有財産もあるからその辺りが明確に見えないし、昔のままの価値観とは大きく違ってきています。
昔で言うなら今のお坊さんの大方は「入道」、つまり僧形の在家生活者です。私も妻子はないけど入道。
頭そっていないので、入道でもなくただの優婆塞かな。

戦国武将なんかある年齢になると入道になる人は多かった。
武田信玄上杉謙信はもとより、細川三斎、キリスト教徒の大友宗麟も一応入道。
でも寺にいたわけじゃない、城にいて合戦にも出たし、奥さんはおろか側室もいた。
酒も飲めば肉魚もいとわない。
じゃあ、なぜ入道になったの?
まあ、合戦ともなれば、どう思おうと敵も味方も領民も多くの人を殺してしまうことになります。
そうした贖罪の意識とけじめでしょうね。
頭だけ丸めて菩提を弔うということ。実質は在家です。

勿論、昔の儘の出家が正統派でしょうが、現実の法律と照らしてもそこは難しい。私有財産を全く持たない坊さんはいないしね。
いわば、みんな「入道」みたいなものです。
世捨て人を気取ったところで、何もなくても保険料や市県民税はかかる。お布施だってもらえば収入で計上することが必要です。
だから比叡座の籠山比丘みたいにほとんど大本山の中にいて修行だけに専念しているというのでもない限り出家といってもあり方は在家と変わらない。
そんな中で現実、出家とは・・・?
私的には「仏教的な価値をもっぱらに生きること」だと思っています。

その方は女性でした。
だから、「普通に恋もし、結婚もし、家庭で出産もし、家族を愛しながら生きていきたいということ、あなたの幸せがそこに尽きるなら出家はいらないでしょう。出家とはそれとはまた別な価値観で生きる人々です。」

したがって世福を求めて出家するなんて方向が違います。
出家すれば、いわゆる「幸せ」になるなんてありえない。むしろ人を幸せにしたいので・・・ならあるかも。
実は出家する人にとって、そういう普通の幸せとは実はもう究極の幸せではないんですよね。


うではなくて、愛する人や家族にに囲まれ、豊かに暮らすというようないわゆる幸福な人の生活を指くわえて「いいなあ…」とうらやむ心がありながら、墨染めのころも着て読経だの護摩焚きだのにいそしむというなら、・・・わざわざ在家からそんな出家なんてことまでしない方がいいと思う。
迷わず世福をとるべきです。それだって大変だよね。

私的に考えたらそういうことです。

うちは準教師という資格のある方は結構いるけどそれって実は「在家」です。
在家戒を正規に上けて修行する人です。いわば優婆塞。
だから「僧侶とは言うな」と厳命している。修行は修行でいいと思う。
でも、そこから本山の戒壇道場に上り僧侶になる道は、また別な世界と思っていて欲しいと思います。