金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

能弁と訥弁

 

能弁な人というのは得てして世の中をうまくわたっていける。これに対して訥弁な人(口下手な人)や言い回しに長じていない人は誤解されたり、理解を得られない傾向があります。

能弁であるということは頭脳明晰であるということとほぼ同じ。知識はまた別な問題ですが。
ただし、大変有利ではあるがそれがそのままに直に真実とは言えない。
人の上に立つものはそこを見極めねばそのチームは腐ります。
 
説得力とは口先にあるものではなく、事実にこそあるべきものです。
そこを間違えてはならない。
 
世の中は落としどころがあればいいという部分がある。
極端な例を挙げれば子供が虐待されていても、周囲の問いかけに親がしつけだといえば「成るほど」である範囲内では許容されてしまいます。
しかし「そうじゃないだろ!虐待じゃないか」と突っ込んでくる正義の人もいる。
そういう人がいないと兎角言い回しの上手い人が勝利し、口下手な人は責任を押し付けられたり追いやられます。
能弁であるということは語るところがかならず真理であるということではない。
リーダーや教師といった人はここのところを絶対に踏まえておかねばなりません。真実を見る目はそこから始まる。
そうでないと巧言令色の輩のみが跋扈し、やがては内部崩壊を見ることになります。
そういう会社や団体は法華経の三車火宅の教えに出てくる悪獣の跳梁する火宅のようなものです。
 
若いころ、ある寺院に修行に行く話がありました。一度あいさつに行ったけど、どうも雰囲気が嫌なのでしぶっていかないので、師僧に怒られましたが・・・結局行かなかった。なんかよくない感じがして。
実はその寺は新しい小僧さんが盗んだことにして先輩の小僧がお金を盗んでいたそうです。言ったら私も泥棒の仲間入りにさせられていたでしょう。
私の後にいった人はそのせいで腐って坊さん辞めてしまった。
そこの寺の師僧が見るべきところ見ていない。
そこの住職は世間的には信用もあり修行的にも実際尊敬すべき方ですが・・・リーダーや師匠としてはいかがなものだろうか。
 
能弁の才のある人は一種の有能人であることには間違いない。
 
しかし、会社でも団体でも最終的にはそのような有能人が多いか否かではなく、真実の人が多いか否かが大切なのです。
構えは立派でも「うそつき烏」が跳梁しているところは先が見えている。
私はそう思います。