金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

生きていることが誕生祝い

誕生日にお祝いしてくれる方もいるというけど…
私の誕生祝いは「ああ、今年も生きているんだ!」という実感と感謝。
 此れ若くても年とっても一緒。何があるかわからないからね。
西城秀樹さんなんか残念だったね。今ならもう早死にの部類だわな。

だから、この生きてること自体が一番のお祝い。


これ以外に何もいらないんです。
私の場合はね。
中にはなんだかご丁寧に構えてお祝いに持ってきてくるとかいう人もいるけど正直言えばそんなもの煩わしいだけです。
「いらん!」といっても持ってくる。
「ホントは嬉しいんだ」と思い込んでいるんだろうね。
正直に言っているのにわかっちゃいないんですね。
そういう人は。
ま、祝う気持ちよりものあげるのが好きなだけなんだと思う。
前にもそういう人いたけどあることをきっかけに出て行ってもらいました。
その人も異常なくらいもの持ってくる。しまいに本気で叱っても持ってくる。
病的です。
申し訳ないけど正直いなくなって、過剰なプレゼント攻撃もなくなり気が楽です。

ものもらって嬉しいという構図はどこかで修正しないと、しまいにものくれる人は特別大事にしないと悪いよね という構図になる。でも、それ宗教では好ましくない図ですね。
そういう持ち込み型の信者ばかりが幅利かすことになる。
お寺自体や本尊様に奉納ならいくらして頂いても嬉しいけど、個人的なプレゼントの有無で距離的に差別が生じるのは宗教者としてあってはならない卑しいふるまいだと思うのです。
だから私はもの持ってくる人ほど、逆に心の中では距離措くことにしています。


そういう人は結局自分という人間だけじゃ自信ないんだね。何かお土産持って行かないとそういう方は自分が無価値に思うのかもしれません。
ま、正直お気持ちは嬉しいけど気持ちだけで「ケッコウ毛だらけ猫灰だらけ」(誰も知らんか、こんなセリフ)って感じ。
こういうのは盆暮れのあいさつのような社会の儀礼とは別でもっと個人的なもんだと思うんです。



自分の誕生祝いですからね、自分が祝えばいいんですね。
まあ、かくいう私には実は私流の祝いがはあるんですよ。



自分一人でどこかへいって、少しばかり気の利いたものでも食べて人生をかみしめる。
それが毎年の私だけの誕生祝い。
私の誕生日なんて誰も知らない方が気持ちいい。
誕生日まで余計な人と過ごして気を遣うのは勘弁してほしいな。
誰もいないのがいいんです。



毎年盛大に人を大勢呼んでパーティやったりする人もいるようですね。
それも結構だけど、私的には無用にしか思えない。
よほど社会的に影響や貢献のある人とか偉い人やなんかでない限りそんなの他人様に関係ないと思うから。
もちろん親子や夫婦。家族や恋人同士で祝うとかいうのはわかります。
 
そこにいくと正直に言うと私は自分のお葬式もいらないと思っているくらいですから、まして誕生日なんかなにもいらないんですけどね、

でも、今年は奇しくも誕生日に准胝仏母様を新しく作るという事で仏師の先生を訪ねる話になりました。

仏像の彫刻修行したのみでなく富山の井波彫刻の流れをくむ方です。凄いね。井波彫刻は山車の龍なんかが見事なんです!
だからこの先生は富山県に工房がある。
この先生の作品、信者さんの御家で、見て「この仏様、いいなあ」と思いました。

別に誕生日だからじゃなく、偶然日程の都合でその日が面会になった。
択日や方位の上からは良くないんだけど…先様の都合もありますしね。
でカレンダー見てみてみたら誕生日だったんです。
でも、そういう偶然はちょっとなんか感じますね。
そういうのはちょっとうれしい。
うちにも准胝様いますがどうも化仏はあるし、五智宝冠はないし、仏母というより観音様ですね。(今はなき醍醐寺の准胝様の写し見たいです)
これはこれでいいけど、今度は天台式に仏母らしいのほってもらおうかなと思っています。
誕生祝いとしてはこの上はないですね。

このご縁こそが仏さまからの無上のプレゼントだと思っています。