金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

深海魚のように


昨日けったいな電話がありました。「お詫びを言いたい」という電話でした。
でも名前のほかはお詫びの内容も全然いわない。
勿論この人も全然知らない方です。
何をどう詫びたいのかわからない。それはいえないのだそうです。
それでも寺に来たいという。

そんなの無意味だね。第一お詫びにならない。なにしたか内容も言わないのなら。

でも
「私は何にも迷惑していない。忙しいのでそんなことでおいでになることはいりません。・・・何か私の事したんですか。あるいは誹謗中傷したのかもしれないけど・・・そんなのは私どうでもいいです。
人の意見は色々だからそんなの私はかまってません。
許せというなら許します。それであんたが気が済むならね。
何だか知らないけど。」
とだけいって電話切っておきました。

なんだかね。後で考えるとこの人、何か身辺によろしく無いことが起きて、私がテレパシーか何かでその人の言動を知って怒り呪詛かなんかしていると思ったのかね。
そうでなきゃお詫びの内容のないお詫びって何なのかと思う。それも訪ねてくるという。此れってまったく誠意なんかではないね。様子伺っているみたいな感じです。かなりオドオドした感じでした。

来るというから、どこにお住まいですかと聞いたらいわないし。特定したらますます妖術かなんかかけられると思ってるんだろうか?

やれやれです。
昨日の人、もしもこのブログ見てたらいっておきます。
もしそう思うのなら私はそんな力は全然ないですから安心してください。
そんな暇でもないし。

でもこういうのも心理的投影の一種だろうね。
別に特に利害関係のない人間の特性をとらえて賛同する。反対する。憎む。支持する。それって自分がどういう人間かという確認でもあり、一種のアファメーション、自己表現でもあると思う。
その対象は多分にモデル化されているし、実際はダミーです。
つまり本当はよく知らないまま。

人はそうやって自己を確認し表現し、信号出し合う生き物。
深海魚が光出し合ってるみたいの。
そうやって同時に自己形成しているんですね。私たちは。

人間て面白い生き物なんだね。(笑)