これは前にも言いましたが招請でいったん同一化しておいてさらに深める。
ここではそれをより丁寧に確認していく。
種字、三昧耶、尊形と変化させて自己と同一化する。
種字はもっとも本質的な仏です。「声字実相義」という弘法大師の著作がありますが、声や字は仏そのもの、真如そのものです。
この辺は神道でも「言霊」といい、聖書でも「はじめに言葉ありき。言葉は神とともにあり、。言葉は神なりき。」と言っているのと近いですね。
だから真言方では字輪観と言って字義を丁寧に観想する。字義観想は天台では念誦のあとやりますね。
さて、その種字が働きを現す事物「三昧耶形」になり、尊形になる。
尊形はヒューマノイドの形の仏なので一番観念的に同化しやすい。
三昧耶は剣、イメージが梵字よりはっきりしてくる。
知恵の剣をふるい「破邪顕正」「煩悩を切る」というイメージですね。
三昧耶形の仏というのもオーケーです。
最後に尊形、これはイメージがよりアクセスしやすい。器物でなく基本的には人間の姿ですから。
でも、理解が浅いと不動明王はああいうスタイルでどこかに暮らしているということになる。
ある人が「お不動さんって四六時中、ああやって剣と縄持っているんですかね。お食事するときは措くのかな。」(笑)
尊形だけだと極端な話そういう間違いもありうる。
霊能者なんかはその辺はこの尊形のイメージですべて考える人が多い。
教学やればその辺の理解が変わり、受け取るものも変わるはずです。
だから教学は大事です。
だから種字、三昧耶もきちんと踏まえておく。
三密に当てれば種字は口密,三昧耶は意密、尊形は身密に当たるかと思います。
最初、梵字が拡大し宇宙大になって次には収斂して自分と同じ大きさになる。
カーンならカーンが宇宙中に響き渡る。そういうことですね。
それが収斂していく過程は報身。
己身と同じくなって三昧耶、尊形になって応身です。
だからそこは丁寧でいきなり法身と一体化するんじゃない。
密教の修法上の仏は皆、応身レベルです。
応身だから個々の願いに相応する。応身なので六度供養します。
応身だから感得仏の存在もある。
法身では感得仏はありえない。
法身は理仏ですからそのままじゃ三次元に展開しない。
法身仏から報身に至ってはじめて祈願がかたちになる。
成仏論なら応身から法身の境涯に至る。従因至果。
開眼の時お招きするのも報身ですね。これを仏像に入れて仏像は応身です。