これに正念誦という言い方をしますが、台密ではそれを行法における正宗分(もっとも肝要に当たる部分)とするゆえそう呼び、東密では対するに散念誦というものを置きますが、この東密の正念誦は先の入三昧地をさらに開き100編の念誦を付したものであり、散念誦が台密の正念誦に極めて近いものとなっています。
古来行法における念誦は最低108辺。これを切れば正念誦としないといいます。対するに散念誦における本尊真言は通常一千辺。正確には1080辺になります。
これは東密の意を下に敷いたものと思います。
念誦は早からず遅からずといいますし、蘇悉地経などはあくびや咳をしてもやり直せという厳しいことが記されておりますが、現実には熟達に従い音は必ずしも明瞭ならず、真言を意識するに連れて口が動くような程度の念誦になります。
しかしながら正念誦100辺という意はおろそかにできないので100は正確に唱えるべきだと思います。
念誦は入我我入観をさらに深めて仏と行者の間に加持をするものです。
この加持によって即身成仏。つまり凡夫ながらにて仏の意に叶う所作がなると考えます。
私は経験上、必ずしもこのようにしなくてはいけないということでなく、初行の者はこの観念で行い、後は熟達に随い心に任せるのがいいように思う。
また実際真言をおってこのように思わなくても、最終的にはそのようであるという観念に住すれば足りるものと思う。
是より念誦が終われば行法は折り返しとなり再び六度供養などして結界を解き。回向ののちに発遣して一座を終わります。